大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台高等裁判所 平成7年(う)53号 判決 1998年3月17日

主文

本件各控訴を棄却する。

被告人Eに対し、当審における未決勾留日数中八〇〇日を原判決のその本刑に算入する。

理由

以下の記述において、原審平成三年(わ)第一一五号(被告人A、同B、同C及び同Dに対する同年八月一六日付け起訴にかかる公訴事実)、同平成四年(わ)第一号(被告人Fに対する平成三年一一月二一日付け起訴にかかる公訴事実)の各事件を併せて「盛岡事件」と、原審平成三年(わ)第八二号(被告人A、同B、同C、同D及び同Eに対する同年七月六日付け起訴にかかる公訴事実)、同第一五六号(被告人Fに対する同年一二月一六日付け起訴にかかる公訴事実)の各事件を併せて「郡山事件」と、原審平成三年(わ)第九三号事件(被告人Aに対する同年六月四日付け起訴にかかる公訴事実)を「千葉事件」と、それぞれ呼称する。

なお、以下の記述につき、被告人Aを「被告人A」、同Bを「被告人B」、同Cを「被告人C」、被告人Dを「被告人D」、被告人Eを「被告人E」及び被告人Fを「被告人F」といい、「被告人ら」ないし「被告人ら全員」などという場合、特に断らない限り、盛岡、郡山及び千葉各事件における、関係被告人を含めた共犯者全員を表すものとする。

証拠の引用は、別紙「証拠の引用例」による。

第一  本件各控訴の趣意は、弁護人角山正及び同富沢秀行(被告人A関係)、弁護人渡辺寿一及び同佐々木健次(被告人B関係)、弁護人増田隆男及び同増田祥(被告人E関係)、弁護人山田忠行及び同齋藤信一(被告人F関係)が、それぞれ連名で提出した各控訴趣意書(被告人Fの関係で弁護人山田忠行及び同齋藤信一が連名で提出した控訴趣意補充書を含む。)並びに仙台高等検察庁検察官検事海老原良宗が提出した福島地方検察庁検察官検事伊豆亮衞作成名義の被告人C及び同Dに対する控訴趣意書に、右各被告人らの各控訴趣意に対する検察官の答弁は、右検察官検事海老原良宗作成名義の答弁書に、右検察官の控訴趣意に対する各答弁は、弁護人高橋輝雄及び同佐藤由紀子(被告人C関係)並びに弁護人浅沼貞夫及び同舟木友比古(被告人D関係)が、それぞれ連名で提出した各答弁書に、各記載されたとおりであるから、これらを引用する。

なお、弁護人角山正及び同富沢秀行は、当審第一回公判期日において、被告人Aの控訴趣意は、原判決の量刑不当及び量刑事情に関する事実の誤認を主張する趣旨である旨釈明した。

第二  被告人B及び同Fの各控訴趣意中、事実誤認の主張(被告人Cの控訴趣意第一(総論)及び被告人Fの控訴趣意第二)について

なお、これらの主張の中には、量刑事情に関する事実の誤認ないし原判示の情状事実に関する評価の誤りを主張するにとどまるものも含まれており、同主張については、主要な点のみ本項で判断を示すこととし、その余の主張については、後述する各被告人の量刑不当の主張に対する判断の中で適宜触れることとする。また、被告人A及び同Eの各控訴趣意並びに被告人C及び同Dの各答弁(いずれも、当審の弁論を含む。)において、右主張に関連して原判決の事実認定の誤りを主張する点も、本項で適宜判断を示す(なお、以下において、「所論」というときは、被告人B及び同Fの各控訴趣意中の主張のほか、同被告人らの当審の弁論(以下、単に「弁論」という。)における主張ないし以上の各主張を併せた意味でも用いる。)。

一  盛岡事件について

1  事前謀議の有無について

(一) 被告人らの各主張

被告人Bの所論は、原判決は、本件犯行の前日である昭和六一年七月一四日ころ原判示被告人B宅で行われた事前の謀議(以下「本件謀議」という。)において、被告人ら全員で本件犯行の被害者Gから金員を奪って同人を殺害する確定的な共謀を遂げた旨認定判示しているが、そもそもそのような事情謀議があったかどうか極めて疑問であるし、そうでないとしても、被告人Bは、右謀議に顔を出してはいたが、Gを井戸に投げ込んで殺害するという謀議に加わったことはなく、同被告人としては、Gを脅して金を出させるとの認識で、他の被告人らと行動を共にすることを約束したに過ぎないのであって、その後においても、他の被告人らとの間で、Gから金員を奪って同人を殺害するとの共謀を遂げたことはなく、原判決が右の事実を認定したのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認である、というものである。

また、被告人Fの所論は、原判決は、被告人Fが本件謀議に参加した旨判示しているが、同被告人は、本件謀議に参加したことは全くないというものである。

その他、被告人Aは、控訴趣意及び弁論において、原判決は、被告人Aが、本件謀議に参加してその際自ら脅迫方法を提案した旨判示しているが、被告人Aは、本件謀議には加わっておらず、したがって、同被告人が、その際自ら脅迫方法を提案したということもあり得ないし、右謀議に引き続く原判示H所有の木造平屋建居宅(以下「空き家」という。)の下見についてもこれに加わっておらず、この点原判決の事実認定は誤っているなどと主張し、また、被告人Cは、答弁及び弁論において、本件犯行の前日行われた謀議においては、あるいはGが殺されるかも知れないとの疑いを持ったものの、そのようなことはあり得ないと思っていたものであり、その時点で強盗殺人についての意思形成にまでは至っていなかったのであって、G殺害の確定的故意の発生時期は、極めて緩やかに解したとしても、穴掘りが始まった時点であるなどと主張する。

(二) しかしながら、原判決が、「主張に対する判断と補足説明」の項の第一の一「共謀の内容及び成立時期」で適切に説示しているとおり、原審で取り調べた被告人Fを除くその余の被告人らの捜査段階及び原審公判における各供述(ただし、被告人A、同B、同Cの原審公判における各供述のうち措信しない部分を除く。)等の関係各証拠を総合すれば、本件謀議が行われた事実、すなわち、本件犯行の前日である昭和六一年七月一四日ころ、被告人A、同B、同C、同D及び同Eの本件犯行の共犯者全員が、原判示被告人B宅において、Gを誘拐し、同人を脅して金品を強取するとともに、犯行の発覚を防ぐため同人を殺害することについて共謀を遂げたとの事実を優に肯認することができ、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決の右認定に誤りがあるとは認められない。以下、各所論(ただし、被告人Fの所論については、同被告人の他の主張とも密接に関連するので、後記同被告人の主張に対する判断の項でまとめて判断を示すこととする。)に鑑み補足して説明する。

(三)(1) 被告人Bの所論について

所論は、原判決が認定した盛岡事件の事実経過をみても、<1>人を殺して金品を奪うなどということは死刑も予想される大罪であり、これを行うためにはよほどの大金が確実に入る見通しが必要であるのに、本件において被告人Bらが、奪い取る金員の額や奪い取る確実性について討議した形跡がないこと、<2>本件犯行の前日の段階において確定的な故意があったとされる割りには、その翌日以降の犯行の進展状況はあまりにも緊張感がないこと、<3>盛岡事件に関与した各被告人らの供述調書や原審公判の供述をみても、いつ、どこで、どのような経緯で殺害方法を古井戸への投棄から穴への生き埋めに変えたのか明らかでないのみならず、人を穴に生き埋めにして殺すなどということはただならぬことであり、現金が何も取れていない段階でそのようなことを本気で決意するとは思われないこと、<4>被告人Bのみならず、被告人C及び同Aも原審公判において、本件犯行についての事前の明確な謀議を否定する供述をしていることなどを指摘し、本件謀議が本当にあったのか極めて疑問であるといわざるを得ない旨主張する。

しかしながら、原判決が一二二頁から一二三頁にかけて認定判示している、関係各証拠上概ね争いのない事実、すなわち、被告人Cと同Dが、本件犯行の前日にI方に赴き同人が保管していた普通貨物自動車(原判決三一頁記載のとおり改造が施された日産ホーマー車、以下「改造ワゴン車」という。)を借り受け、これを被告人C方まで搬送し、翌日これを空き家まで回送した後、同車にGを乗せて原判示モーテル「ホテル甲野荘」(以下「モーテル」という。)を経て同人を殺害した岩手県岩手郡雫石町所在の小岩井農場(以下「小岩井農場」という。)まで連行したこと、被告人Dは、本件犯行当日、予め準備しておいたガムテープとひもを同人所有の普通乗用自動車に積んで空き家に持参し、これらを使ってGの両目を塞いで手足を緊縛し、被告人Aは、予め、当時乗っていた外国製乗用車のトランクから刃渡り約二四・三センチメートルの原判示短刀(以下「短刀」という。)を持ち出し、これを使用してGを脅したこと、被告人Dが、被告人Cとともに同被告人方にマージャン牌を取りに行った際、同室内にあった懐中電灯を持ち出したが、同被告人としては、これを小岩井農場で古井戸を探すのに必要だと考えていたことなどの諸事実に照らせば、本件犯行に及ぶ前に被告人らの間で謀議がなされていたことは到底否定し難い上、右のような準備の状況や、Gを空き家に連行し、翌日には予め準備した改造ワゴン車でGを小岩井農場に連行し、同農場内で古井戸を探しているといった一連の行動経過に照らせば、そのような行動をとることについて事前に話し合いがなされていたことも明らかというべきである。

そして、被告人Fを除くその余の被告人らはいずれも、捜査段階において本件謀議のあったことを認める供述をしているところ、これらの各供述内容を子細に検討してみると、供述が具体的で格別不自然な点はみられない上、細かな点はともかく基本的部分においては概ね一致しており、前記争いのない事実とも十分符合する内容であり、その供述過程をみても格別問題があるとは認められない(この点は、後記被告人Fの主張に対する判断の項で再述する。)。しかも、被告人Dは、原審公判のみならず、当審公判においても、本件謀議のあったことを認める供述を維持しており、また、被告人Aも、原審公判のみならず当審公判において、前記のとおり事前の謀議がなされた時期については争うものの、謀議の内容については、概ね同被告人の捜査段階における供述を維持しているところ、右各被告人が、記憶に反してまで敢えて本件謀議に関する供述を維持するとは考えられないことに照らしても、被告人Fを除くその余の被告人らの捜査段階における各供述や、被告人D及び同Aの原審及び当審公判における右各供述は、基本的に信用することができるのであって、以上に照らすと、原判決が、盛岡事件に関し「犯意の発生と謀議の状況」の項(原判決二九頁ないし三一頁)で認定判示している本件共謀の事実、すなわち、本件犯行の前日である七月一四日ころ、被告人B宅七畳半居間において、Gを空き家におびき出し同人を誘拐した上、同人を脅して金品を奪い、犯行の発覚を避けるため、同人を小岩井農場まで連行して、同農場用の古井戸に投棄するなどして殺害するという一連の計画につき共謀がなされたことに、疑問を差し挟む余地はない。

これに対し所論は、被告人Bの各検察官調書(乙七、八、<41>)には、検察官の明白な誘導部分がある上、検察官調書(乙八)中の謀議成立場面の供述がいかに説得力を欠くものであるかは、前記<1>ないし<4>のようなその記載内容自体から明らかである旨主張するけれども、まずもって、右検察官調書中の本件謀議に関する供述内容をみると、被告人B自身は当初Gを殺害することまで考えていなかったものの、被告人Fに説得されて最終的にはGを殺害することもやむを得ないと考えるようになり、Gについては殺すほど憎らしかった訳ではなかったが、被告人Fから、Gの殺害を強く言われていろいろ考えた結果、自分を守るためには被告人Fが言うとおり、Gを殺害するしかないと腹を決めて、最終的には、Gの殺害を納得した(乙八、<41>七二二一丁裏以下)などと、当時の心境についてかなり具体的に供述しているのであって、これが検察官の誘導によるものとはいい難い上、被告人Bは、右検察官調書中(七二四七丁表)において、被告人F及び同Cと一緒にGのアパートに行ったことについては、これを明確に否定する供述をしていることや、右供述調書を作成した同じ検察官の作成にかかる供述調書中(乙七)では、読み聞けの後で一部訂正を申し立てていることなどをみても、同被告人の前記各検察官調書の信用性に問題があるとは認められない。

また、右所論指摘の点についてみると、<1>の点については、確かに、関係各証拠上、本件犯行前において、奪い取る金員の額や奪い取る確実性について被告人らの間で具体的に話が交わされた形跡は格別認められないが、関係各証拠によれば、本件犯行前の被告人Bの認識として、Gは、多くの者に金を貸していて土地も所有し、外国車を乗り回すなどかなりの資産を有しており、現金も相当持っているとの認識であったと認められる上、右のとおり被告人Bが捜査段階で供述し、原判決も判示しているとおり、同被告人としては、本件謀議が行われるまで、Gを殺害することまでは念頭になかったものの、犯行の発覚を避けるにはGの殺害が必要であると被告人Fに説得され、金品欲しさから最終的にはG殺害を承諾したという経緯に照らせば、Gから奪い取る金員の額や奪い取る確実性について格別話し合いがなされなかったからといって、本件謀議が行われたことに何ら疑問を抱かせるものではない。また、<2>の点についてみると、Gを空き家で誘拐した後同人を小岩井農場で殺害するに至るまで、モーテルにおいてGを交えてマージャンをしたり、場当たり的に古井戸探しをするなど犯行途中で一時緊張感に欠ける状況が見られたことは所論指摘のとおりであるが、さりとて、関係各証拠を精査してみても、犯行の途中において、Gを小岩井農場に連行することや、Gの殺害などについて被告人らで謀議したという状況は全く認められないのみならず、Gを空き家で誘拐した後、いったんモーテルに立ち寄ったものの、予め借り受けていた改造ワゴン車でGを小岩井農場まで連行した上、最終的にGを殺害しているのであり、しかも、被告人らは誰一人途中で犯行から離脱することなく、また、そのようなことを言い出す者もなく、最後まで行動を共にしているという一連の経過を見る限り、被告人らは、Gを誘拐して同人から金品を奪った上、犯行の発覚を避けるためGを殺害するという当初の計画に従って行動したものと十分認められるのであって、所論は採用できない。さらに、<3>の点についてみると、原審及び当審で取り調べた関係各証拠によれば、Gを投げ入れて殺害するのに適当な古井戸が見つからなかった時点で、誰が最初に提案したかはともかく(この点は、後に検討する。)、その場にいなかった被告人Aを除く被告人らが承諾して、Gの殺害方法を穴を掘って埋めるという方法に変更したことが認められ、所論は採用できない。次に、<4>の点についてみると、後述するとおり、本件犯行について明確な謀議があったことを否定する被告人Cの原審及び当審公判における各供述は、不自然で信用できず、また、被告人Aの供述については前記検討したとおりであって、これらの供述は、本件謀議が行われたとの原判示認定を何ら左右するものではない。

以上の次第であるから、本件謀議がなかったとの所論は採用の限りではない。

次に、所論は、仮に本件共謀がなされたとしても、被告人Bは、右謀議に顔を出してはいたが、Gを井戸に放り込んで殺害するという謀議に加わったことはなく、その際、Gを脅して金を出させるとの認識で、他の共犯者らと行動を共にすることを約束したに過ぎず、その後においても、他の共犯者らとの間で、Gから金員を奪って同人を殺害するとの事前共謀を遂げたことはないのであって、原判決の認定は誤っている旨主張し、被告人Bは原審及び当審各公判において右所論に沿う供述をするが、前記説示したところに照らして、右所論は採用の限りではない。

若干付言すると、被告人Bは原審及び当審各公判において、被告人Fが本件犯行の前日に突然やって来て、言われるままに被告人Cらを集めたなどと供述するが、右供述はあまりに唐突であって不自然である。また、前日の被告人B宅における謀議の際、Gを空き家に呼び出して目隠しをして脅した上金を出させることについては謀議をしたが、少なくとも自分が認識する限り、その後Gをどうするかについての話はなかったなどとも供述するが、この点に関する前記被告人Aや同Dらの供述と対比してみても、信用性に乏しいといわざるを得ない上、その時、被告人Fから、小岩井農場に井戸があって、そこに人を入れれば見つからないとの話は出たが、自分としては、どうして被告人Fがそのような話をしたか深く考えず、Gを脅す話とは関係ないと思っていたなどという供述も、不自然で到底信用できない。加うるに、被告人Bが原審及び当審各公判において供述するところは、要するに、被告人FからGを脅して金品を奪う話を持ちかけられ、多少の金が欲しくて犯行に加わったところ、事情も良く分からないまま被告人Fに言われて小岩井農場に行くことになり、その後も同被告人にいわれるまま行動していたところ、気が付いてみたらGを穴に生き埋めにして殺害する羽目になったというものであるが、それ自体不自然な供述であるといわざるを得ないのみならず、被告人Bの原審及び当審各公判における供述によれば、被告人Cや同Dらは、むしろ被告人Fの意図を知り率先して行動しているのに対し、被告人Bは、事情が分からないまま終始被告人Fに付き従って行動したということになるが、関係各証拠から認められる本件犯行当時における被告人Bと他の被告人らとの関係に照らしても、そのようなことはおよそ考えられないというべきである。しかも、他の被告人らの捜査段階や原審及び当審各公判における供述をみても、被告人Bの原審及び当審各公判における供述に沿う供述をしている者はおらず、同被告人の右供述を裏付ける証拠は格別存在しない上、被告人Bの原審及び当審公判における各供述は、原審と当審とで、Gの殺害を認識した時期などの点につき、記憶違いとは思われない明らかな供述の変遷がみられることに照らしても、その信用性はまことに乏しいというほかはない。

これに対し、所論は、被告人Bの言語表現能力の乏しさなどの能力の問題や、スコップ購入の経緯に関する供述の信用性などをあげて、被告人Bの原審及び当審の各公判供述の信用性を強調し、加えて、被告人Bが原審及び当審各公判において供述する事実の流れは、まさに体験を述べていると評価することができ、不自然な点もないのみならず、右供述から窺われる被告人Bの心理状態を子細に検討してみても、被告人Bの能力や性格等に照らせば、十分了解可能であって、本件犯行の前日にG殺害について明確な共謀があったとは考え難いなどと主張するが、前記説示したところに照らして、所論は採用の限りではない。

なお、所論は、被告人B抜きで事前に謀議がなされた可能性も否定できない旨主張するが、記録を精査検討してみても、そのような事実を窺わせる証拠は一切存在しない。

以上の次第であるから、被告人Bの所論は採用の限りではない。

(2) 被告人Aの主張について

被告人Aは、原審公判(原審七回、<64>二四五丁裏ないし二五〇丁裏等)において、同被告人が本件犯行の謀議に加わったのは、犯行当日のことであって、犯行の前日行われたとされる本件謀議に加わったことはない旨供述し、当審公判(当審八回、<82>三一三丁以下等)においても同様の供述をする。しかしながら、謀議を遂げたその日のうちに犯行に及ぶというのはあまりに唐突な感を拭い切れない上、以下のとおり、同被告人の原審及び当審各公判における右供述は信用性に乏しいといわざるを得ない。すなわち、同被告人の原審公判における供述は、原判決も説示しているとおり、当時同被告人が所持していた短刀を持って被告人B宅に泊まった記憶が薄いことに基づいて推測を述べたに過ぎず、被告人Aが本件謀議に参加したことを格別左右するものとは思われない。また、同被告人は、当審公判において、被告人B宅に泊まったのは一回だけであるところ、被告人Bの妻J子の原審公判における証言を聞いて、同被告人宅に泊まったのが本件犯行から一週間か一〇日位後のことであることをはっきりと思い出したなどと供述するほか、当日岩手県に出向いた経緯として、自分は本件犯行の前夜まで千葉県にいたが、盛岡にいるKに電話をかけたところ、地元のやくざにさらわれて殺されそうだからすぐに来てくれと言われたことから、直ちに車で岩手県に向かいKの家に向かう途中時間つぶしに被告人C宅に立ち寄った際、儲け話があると聞いて被告人B宅に行き謀議に加わったなどと供述する(当審八回、<82>三一八丁表以下)が、J子の原審公判における供述(原審三一回、<73>二四七四丁以下)をみても、被告人Aが、一回自宅に泊まったことはあるが、それがいつかは分からない旨の供述にとどまり、泊まった日にちについて根拠となるようなことは格別述べていない上、岩手県に出向いたいきさつに関する右供述もそれ自体不自然であるのみならず、被告人Aは原審公判においては、本件犯行当日、郡山を出発して隼薬品に勤務していた当時借りていたアパートに行く途中偶々被告人B宅に立ち寄ったところ、同被告人から被告人F達が今ここに集まるところだと聞いてとどまることにしたなどと明らかに異なる供述をしている(原審八回、<64>三一四丁裏ないし三一五丁表)のであって、被告人Aが、その検察官調書(乙三三、<43>七八七五丁以下)において、郡山から被告人Cの家に行ったところ、儲け話についてこれから被告人B宅で話し合うことを聞き、それから間もなく被告人B宅に行って本件謀議に加わった、その日は被告人B宅に泊まったが、自分が同被告人宅に泊まったのは後にも先にもこの時だけであるのでよく覚えているなどと明確に供述していることに照らしても、被告人Aの当審公判における右供述は到底信用することができない。なお、所論は、被告人Cは、被告人Aが本件謀議に加わっていないことをその検察官調書(乙一三、<41>七三八八丁表以下)中で明言している旨主張するが、被告人Bは、右供述調書において、本件犯行を起こす一週間位前に、被告人Fの経営するスナック「乙山セブン」(以下「乙山セブン」という。)で最初に本件犯行の話が出た際には被告人Aはいなかったが、本件謀議の際には被告人Aを含め被告人全員が揃っていた旨供述しているのであって、右主張は根拠に欠けるものである。以上のとおりであるから、被告人Aが本件謀議に加わっていないとの所論は理由がなく、採用できない。

次に、被告人Aが、本件謀議の際、自ら脅迫方法を提案したかどうかの点についてみると、この点、被告人Aは、当審公判において、本件犯行の当日行われた謀議のこととして、被告人Aが脅し役を担当する話までは出たが、具体的に短刀を使って脅すという話までは出なかった旨これを否定する供述をする(当審八回、<82>三一七丁裏ないし三一八丁表)けれども、検察官に対する供述調書(乙三三、<43>七八八〇丁表以下)では、Gを脅す手段について相談した際、自分の持っているヤッパで脅すと言った旨これを認める供述をし、原審公判(原審七回、<64>二四五丁表)においても、ヤッパで脅そうということを言ったと思うなどとこれを肯定する供述をしており、また、被告人Fは捜査段階から原審及び当審各公判を通じ、被告人Bは捜査段階において、いずれもこれを認める供述をしていることなどに照らすと、被告人Aが、本件謀議の際、当時所持していた短刀でGを脅すことを提案した旨の原判決の認定に誤りはない。なお、この点に関し、被告人Fは捜査段階から原審及び当審各公判を通じ、被告人Bは原審及び当審各公判において、それぞれ右の事実を否定する供述をするが、後述するとおり、右被告人両名の本件謀議に関する原審及び当審各公判における供述は、信用性に乏しいといわざるを得ないから、これらの供述が右認定を左右するものとはいえない。また、被告人Cの捜査段階並びに原審及び当審各公判における供述も、本件謀議の際被告人Aからドスの話が出たかよく覚えていないというものであって、右認定を覆すものとはいえない。

以上の次第であるから、被告人Aの主張は理由がない。

(3) 被告人Cの主張について

前記のとおり、被告人Cの弁護人は、その答弁(一七頁以下)及び弁論(三六頁)において、被告人Cは、本件犯行の前日行われた謀議においては、あるいはGが殺されるかも知れないとの疑いをもったものの、そのようなことはあり得ないと思っていたものであるなどと主張するが、これまで説示したところに照らして採用の限りではない。

若干付言すると、被告人Cは、原審及び当審各公判において、被告人B宅に集まった際、被告人Fから、「Gをさらって金を奪ったことが同人と付き合っているやくざにばれたらうまくない。小岩井にある古井戸に人を投げ入れれば絶対に上がって来ない。」などという話を聞き、Gから金を奪った後同人を古井戸に投げ入れて殺すのではないかと思ったが、自分自身としては、兄貴(被告人B)はそんなばかなことはしないだろうと思っていたなどと、右主張に沿う供述をするが、その謀議の際改造ワゴン車を準備するという話が出て、実際に、被告人Cと同Fが、Gを移動させるための改造ワゴン車を事前に準備している一事をとってみても、右供述は到底信用できず(ちなみに、被告人Cは、当審公判(当審一五回、<83>七三三丁表)において、改造ワゴン車を使って被告人Fが金を取りに行くと思ったなどと不自然極まりない供述をしている。)、犯行前日の謀議の際、被告人Cにおいて、G殺害もやむなしと考えてこれに同意し、他の被告人らとともに本件謀議を遂げたことは明らかというべきである。被告人Cの主張も採用できない。

2  被告人Bのその余の所論について

(一) 被告人BがGのアパートへ家捜しに赴いたかどうかについて

所論は、犯行の途中で空き家からGのアパートへ家捜しに赴いたのは、被告人F及び同Cの二名であり、被告人Bは行っておらず、同被告人も家捜しに参加したとの原判決の認定は誤っている旨主張する。

そこで、検討すると、原判決は、被告人B及び同Fと一緒に被告人Dの車でGのアパートへ家捜しに赴いたことを認める被告人Cの捜査段階(乙一四、<42>七四三〇丁表以下)及び原審公判における供述(原審九回、<65>五二〇丁表ないし五三三丁表)に加え、右供述内容を裏付ける被告人D及び同Aの捜査段階及び原審公判における各供述を根拠にして、被告人BもG方における家捜しに加わった旨認定判示しているところ、これを認める被告人Cの右供述はかなり具体的なものである上、被告人Dや同Aの右供述も格別その信用性に疑問はないから、原判決の右認定も首肯できないわけではない。

しかしながら、被告人Bは、捜査段階並びに原審及び当審各公判を通じて、一貫して被告人Fや同CとともにG方に家捜しに赴いたことはない旨供述しているところ、とりわけ、同被告人が、捜査段階において、本件謀議に参加したことなどを認める供述をしていながら、G方への家捜しについては、これを明確に否定する供述をしていることは、軽視できないものがある。しかも、被告人Fも、原審公判(原審一四回、<68>一二四二丁裏ないし一二五〇丁裏)において、Gのアパートの家捜しには被告人Cと二人で行ったもので、被告人BはGのアパートに行っていない旨供述しており、当審公判でも同旨の供述をしているところ、後述するとおり、同被告人の供述は全体として信用性に乏しいといわざるを得ないにせよ、本件犯行が、被告人Bの主導によって行われたとする被告人Fの供述内容に照らすと、被告人BがG方アパートの家捜しに参加したことを否定する被告人Fの右供述は、一概に排斥することはできないと考えられる。そこで、以上のほか、被告人C及び同Aが、当審公判において、被告人BがG方への家捜しに参加したことを否定する供述をしていること(もっとも、被告人C及び同Aのこれらの供述は、前記のとおり従前同被告人らが異なる供述をしていることなどに照らすと、その信用性は必ずしも高いものとはいえない。)などをも併せ考慮すると、被告人BがG方に家捜しに赴いたことについては、なお合理的な疑いが残るといわざるを得ないから、被告人Bも被告人F及び同Cと一緒にG方の家捜しに参加したとの原判決の認定は首肯できない。しかしながら、右事実認定の誤りは、量刑事情に関する事実の誤認にとどまるから、これが量刑判断に当たり考慮されるとしても、直ちに判決に影響を及ぼすものとはいえない。

(二) Gを穴に生き埋めにする際、被告人Bが同人を足蹴にして穴に突き落としたかどうかについて

所論は、原判決は、Gを穴に生き埋めにした際、被告人Bが同人を足蹴にして穴に落としたとの事実を認定判示しているが、そのような事実は全くないのであって、原判決が右認定の根拠としている被告人Aの捜査段階や原審公判における供述は、不自然に変遷している上、同被告人の当審公判における供述に照らしても、到底信用し難いものであり、右事実を認める被告人Bの検察官調書中の供述部分(乙一〇、<41>七二九六丁以下)は、同被告人が、取調官から厳しく追及された挙げ句、Gの白骨死体発見時の状況に関する司法警察員作成の検証調書(甲二、<6>一一五丁)添付の番号37、38の写真(一六三丁表、裏)に合わせる形で検察官の誘導により作成されたものであることが明らかであって、信用性に欠けるものであり、この点に関する原判決の認定は明らかに誤っているなどと主張する。

そこで、検討すると、所論指摘の点を考慮してみても、原判決が前記補足説明の第一の二の1「足蹴の事実の有無」の項(原判決一三二頁ないし一三九頁)で説示するところは相当と認められ、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、Gを穴に生き埋めにする際、被告人Bが同人を足蹴にして穴に突き落としたとの事実(以下「足蹴の事実」という。)を認定した原判決に誤りがあるとは認められない。

すなわち、被告人Aは、原審公判において、足蹴の事実を明確に認める供述をしている上、被告人B自身も捜査段階においてこれを認める供述をしているところ、これらの供述は基本的に信用できるものと認められ、しかも、原判決が説示しているとおり、関係各証拠上、Gは誰かに突き落とされて穴に落ちたとみるのが合理的であることや、関係各証拠から認められるG殺害現場における一連の被告人Bの行動をみる限り、被告人BがGを足蹴にして穴に突き落としたとしても格別不自然ではないことなどに照らしても、足蹴の事実は否定できないものと解される。

所論は、足蹴の事実を認める被告人Aの検察官調書中の供述(乙三四、<43>七九四四丁以下)及び原審公判における供述(原審七回、<64>二八九丁以下)について、同被告人の供述は全体として、他の被告人らの供述と大きく食い違うとともに、捜査段階と公判段階とで大きく食い違っていること、G殺害の状況に関する被告人Aの捜査段階における供述と原審公判における供述とを対比してみると、足蹴の事実に関する供述部分のみが不自然に変遷していることなどを指摘して、その信用性を否定するが、被告人Aの捜査及び公判を通じての供述を全体としてみると、被告人Fの供述はさておき、他の被告人らの供述と大きく食い違うというものではない上、公判段階とりわけ当審公判において、従前の供述を後退させるなどしている点はあるにせよ、事件の経過に関する基本的な点についての供述に大きな変遷はみられない(前述した、本件謀議に参加したかどうかに関する供述の変遷についても、結局のところ、謀議をした日時の問題であって、本件犯行前に被告人ら全員でGから金品を強奪して同人を殺害するという謀議がなされたことについては一貫してこれを認める供述をしている。)のであって、被告人Aの供述全体の信用性を否定する所論は採用できない。また、足蹴の事実に関する被告人Aの供述には不自然な変遷があるとの所論についても、確かに、被告人Aの捜査段階と原審公判における供述との間には所論指摘のような供述の食い違いはみられるが、足蹴の事実があったとする点では一貫しているのであって、所論指摘の供述の食い違いが直ちに足蹴の事実に関する供述全体の信用性に影響を及ぼすものとは思われない。もっとも、被告人Aは、当審公判において、足蹴の事実ははっきり見たものではなく、Gが穴に落ちた直後被告人Bが自分の方に寄りかかってきたことからの推測である旨供述するが、同被告人がそのような供述をした理由につき、これまで虚偽の供述をしていたというのであればともかく、一審判決後はっきり思い出したなどということ自体にわかに信用できない上、被告人Aの当審公判における供述によっても、被告人BがGを足蹴にして穴に突き落としたことが推認されるのであって、右供述が、捜査段階や原審公判における供述の信用性を左右するものとはいえない。なお、所論は、被告人Aが自己の刑責を軽くするために敢えて足蹴の事実について虚偽の供述をしたなどというが、関係各証拠から認められる被告人Aが本件犯行に加わった経緯や本件犯行における立場からすると、被告人Bによる足蹴の事実が、格別被告人Aの刑責を軽くするものとは解されず(なお、被告人Aが、Gを穴に突き落としたなどという証拠は全く存在しない。)、かえって、被告人Aが、この点につき殊更虚偽の供述をする必要はないことからしても、足蹴の事実を認める被告人Aの捜査段階や原審公判における供述は、信用性を肯定することができる。

次に、所論は、足蹴の事実を認める被告人Bの前記検察官調書は、捜査官から厳しく追及された結果被告人Bの意思に反して作成された旨主張し、被告人Bは、原審(原審一二回、<66>九一二丁表ないし九一五丁表)及び当審(当審一二回、<82>五五四丁裏以下)各公判において、右主張に沿う供述をするが、前述したとおり、同被告人は、右検察官調書と同じ検察官の作成にかかる供述調書中では、検察官からの再三の質問に対しても、空き家からGのアパートに行ったことはない旨自己の言い分を貫き通すなどしていること(乙八、<41>七二四七丁表)に加え、右調書が作成された際の取調べ状況に関する被告人Bの原審及び当審各公判における供述は、かなり誇張があると思われることや、殺害現場において自らがとった行動等に関する被告人Bの原審及び当審各公判における供述は、被告人A、同C及び同Dの捜査段階や原審及び当審各公判における各供述等の関係各証拠に照らして、不自然なものであり到底信用し難いことなどに照らすと、足蹴の事実を自白した経緯に関する被告人Bの原審及び当審各公判における供述は、にわかに信用できない。

更に、Gの白骨死体発見時の状況に関する検証調書の写真に合わせる形で検察官が供述を誘導したとの所論について検討すると、所論は、右検証調書中の白骨死体の写真をみると、Gの白骨死体は、腰から上は少しねじり気味になっており、腰から下は膝を逆「く」の字形に立てていて被告人Bが供述するようなものになっているが、Gは、足蹴にされた後いったん上半身を起こし、被告人Dにスコップで顔面等を殴打されているところ、右殴打の前後で同じ姿勢になるとは到底考えられないから、被告人Bの右供述は、右白骨死体の写真に基づく検察官の作文であることが明らかであるなどと主張する。しかしながら、右検証調書の白骨死体の状況に関する所論指摘の写真をみると、下肢については、膝を曲げた状態であると認められるけれども、腰から上がどのような状態であったかは写真では判明しないのであって、まずこの点において所論は直ちに採用し難い上、被告人Dは、その検察官調書(乙二二、<42>七七一四丁以下)中で、起き上がった際のGの姿勢について、Gは上半身を途中まで起こしたという感じでぐるぐる巻きになっていた頭を上げたなどと供述していることからすると、下半身の状態について、前記検察官調書において供述するところと右写真とが同じであるからといって格別不自然とはいえないのであって、以下に照らすと、検察官の誘導による供述であるとの右所論も、格別根拠のあるものとは思われず、これを採用することはできない。

以上の次第であるから、足蹴の事実を認定した原判決に誤りがあるとは認められず、所論は採用の限りではない。

3  被告人Fの所論について

(一) 被告人Fの所論は、概ね次のようなものである。すなわち、原判決は、被告人Fが、Gに対する債務の返済に窮した挙げ句、同人を殺害して一挙にその債務を免れると同時に、あわよくば同人の金員その他財産を奪取しようとの考えを抱くに至って、本件犯行計画を他の被告人らに持ちかけたとみるのが相当であるとし、本件犯行は、被告人FがGに対する債務を免れるとともに、金品を奪取する目的で、被告人Bらに持ちかけて一連の犯罪集団の母体を形成し、謀議を主宰してGの殺害を含む周到な計画を立案したとして、被告人Fが盛岡事件において中心的な役割を果たしたと認定判示している。しかしながら、被告人Fは、本件犯行の前日に被告人B方で行われた本件謀議に参加したことはなく、Gに対し制裁を加える目的で本件犯行に関与したに過ぎないのであって、営利目的や財物奪取の目的でこれに加わったものではなく、本件犯行でGから奪取したとされる個々の財物について、これらが奪取されたという認識あるいは不法領得の意思を有していなかった。また、被告人Fは、Gを埋めるための穴が掘られている時点で初めて、Gが殺害されるかも知れないと認識したものであり、本件における被告人Fの行為は、監禁及び殺人にとどまる。したがって、本件犯行において、被告人Fが、中心的、主導的役割を果たしたことはないのであって、原判決が、右のとおり認定判示したのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認である、というのである。

(二) しかしながら、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、原判決が前記のとおり認定判示したところは、合理的な疑いを超えてこれを肯認することができるのであって、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決の右認定に誤りがあるとは認められない。以下、所論に鑑み説明を加える。

(三) 盛岡事件に関する被告人Fの供述の信用性について

被告人Fは、その各検察官調書(乙一七二ないし一八〇)や原審及び当審各公判において、右所論に沿うかなり詳細な供述(以下、これらをまとめて「被告人Fの供述」という。)をしているところ、所論は、被告人Fの供述に沿ういくつかの事実が認められるなどとして、その供述には信用性が認められる旨主張するのである。

しかしながら、所論指摘の点に対する判断に先立ち、まずもって、被告人Fの供述を子細に検討してみると、本件犯行の全体的な流れこそ捜査段階から原審及び当審各公判を通してその供述に大きな食い違いは見られないとはいえ、捜査段階から原審及び当審各公判を通じ、後に所論に対する判断の中で指摘する点を含め供述全般にわたり、相互に矛盾する供述が随所にみられる(ちなみに、被告人Fの供述の変遷について、被告人Bの弁護人が当審の弁論において具体的に指摘している。)上、被告人Fの原審及び当審各公判の供述をみてみると、弁護人や検察官らの質問を巧みに回避しようとしたり、答えをはぐらかすような供述も散見されるのであって、被告人Fが誠実に真実を語ろうとしているものとは思われないのである。しかも、被告人Fの供述をみると、本件犯行の全体的な流れについて他の被告人らの捜査段階や原審及び当審各公判における各供述と際だった食い違いをみせている。とりわけ、被告人Fが本件犯行に関与するに至った経緯につき、同被告人は、本件犯行当日の昼頃、突然、被告人Cが、当時盛岡市松尾町にあった乙山セブンを訪れ、被告人BがGを連れ出して出掛けたと言うので、被告人C運転のワゴン車に同乗して、途中の喫茶店で被告人Dらと合流し空き家に赴いたなどと供述しているのに対し、他の被告人らは一様に、その時期や話し合った内容などはともかく、犯行前に、被告人ら全員が被告人B宅に集まって犯行について謀議を遂げた上、犯行当日は被告人ら全員がそろって被告人B方から空き家に赴いた旨供述しているのである。

これに対し所論は、被告人Fと比較して他の被告人らの供述間に供述の一致がみられるのは、取調べの過程において各被告人らの供述について捜査側による突き合わせがなされたと考えられることや、未だ逮捕されていなかった被告人Fを悪者にしてしまうという共犯者の心理などを指摘して、他の被告人らの供述の信用性に疑問を投げかけている(控訴趣意書四六頁)が、被告人F以外の他の被告人らの各検察官調書の記載内容をみても、事前に誰が参加して謀議がなされたか否かという極めて重要な事実について、他の被告人ら全員が捜査官による供述の突き合わせに迎合して虚偽の供述をしたとは到底思われない上、右後者の主張についてみると、確かに、原判決が説示しているとおり、被告人Fは、他の被告人らが逮捕、勾留され、郡山事件、盛岡事件いずれについても取調べを受けて起訴され、公判期日が開かれて検察官による一応の罪体立証も終えた時点で、盛岡事件の容疑で逮捕されるに至ったという経緯に照らすと、他の被告人らが、少しでも自分たちの刑責の軽減を図ろうとして被告人Fに責任を転嫁させるべく虚偽の供述をした危険性も全くないとはいえず、他の被告人らの供述の信用性については慎重な検討を行うことが必要であることはいうまでもないが、この点については、原判決が一七七頁から一八一頁にかけて「他の被告人らの供述の信用性」の項で検討しているとおり、本件の捜査経緯や原審及び当審各公判における他の被告人らの供述内容等に照らしても、犯行の全体的な流れについて、他の被告人ら全員が捜査段階において、被告人Fに責任を転嫁させるべく口裏を合わせて虚偽の供述をしたとか、他の被告人らを取り調べた捜査官が殊更事実を歪曲して供述調書を作成したなどという可能性は全くないと考えられる。

したがって、被告人Fの供述は、まずもって以上の諸事情に照らし、その全体について信用性に重大な疑問があるといわざるを得ない。

(四) そこで、被告人Fの供述が右のようなものであることを前提としつつ、以下、所論が指摘する点につき若干検討を加える。

(1) 被告人Fの経済状態に関する主張について

所論は、原判決は、被告人Fが、本件犯行計画を他の被告人らに持ちかけ、謀議の主宰をするなどし本件犯行の主導的役割を果たしたと認定した根拠として、犯行当時、被告人Fが経済的にかなり逼迫した状態に置かれていたことが明らかであり、また、被告人FがGに対して債務を負い、その返済に窮していたと認めるのが相当であるとし、被告人FがGを殺害し一挙にその債務を免れると同時に、あわよくば同人の金員その他の財産を奪取しようとの考えを抱いたことを挙げているが、本件犯行当時、被告人FはGに対して債務を負担しておらず、また、G以外の者に対する債務は存在したが、その取立ては受けていなかったものであり、しかも、当時被告人Fは、経営していた乙山セブンの売上が順調であって生活に困っていなかったことが明らかであり、被告人FはGを殺害する必要はなかったものであるなどと主張する。そこで、所論に鑑み説明を加える。

<1> 本件犯行当時における被告人FのGに対する債務の存否について

所論は、原判決は、本件犯行当時、被告人FがGに対して、乙山セブンの店舗を盛岡市南大通り所在の丙川パークビル(以下「丙川パークビル」という。)に移転した際の権利金四〇〇万円(以下「権利金」という。)の残債務などかなりの借財を負っており、同人から返済を厳しく督促されていた旨認定判示しているが、権利金については、本来被告人Fが受け取ることができる西仙北の乙山セブンの店舗の売却代金三〇〇万円が、当時Gと共同で事業を行っていたSに支払われたことが証拠上明らかである上、その他に、権利金の一部として、被告人FからGに対して三〇〇万円が支払われており、Gは被告人Fに対して権利金の残額の請求権を有しておらず、むしろ被告人FはGに対して過払の状態であったのであるから、被告人FがGから権利金の残額について請求を受けることは考えられず、また、その他に被告人FがGに借金をしていることを示す具体的証拠はないのであって、原判決の右認定は誤っている旨主張する。

しかしながら、原判決が、本件犯行当時における被告人FのGに対する債務の存否につき、「Gに対する債務の存否」の項(原判決一五七頁ないし一六七頁)で説示するところは正当であって、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決の右認定に誤りはない。

まず、所論が指摘する権利金の点についてみると、Lの検察官調書(甲四三二、<52>一〇一九三丁以下)、司法警察員作成の捜査報告書(甲四三三、<52>一〇二〇五丁)等の関係各証拠によれば、被告人Fは、昭和五九年六月に乙山セブンの店舗を西仙北から丙川パークビルに移転した後間もなく、Gから権利金の支払いを強く迫られたため、同年九月にみちのく銀行から妻L子名義で三〇〇万円を借り受け、その中からGに対し、被告人Fの供述によれば三〇〇万円、L子の供述によっても二〇〇万円を権利金の一部として支払ったことが認められ、また、Mの警察官調書(甲四二〇、<51>九九七六丁)によれば、西仙北の乙山セブンの店舗を買い受けた同人は、同年一二月ころ、その買受け代金三〇〇万円を、当時Gと共同で「戊田メディア」の名称で貸金業を営んでいたSに対し、第三者を介して支払ったことが認められる。

しかしながら、昭和六〇年九月ころから本件犯行当時までGと交際していたN子の検察官調書(甲四三〇、<51>一〇一四九丁)、昭和五九年四月ころから昭和六一年三月初めまで右戊田メディアに勤務していたO子の警察官調書(甲三九、<9>六六九丁)のほか、Pの検察官調書(甲一〇二、<12>一四六四丁)等の関係各証拠を総合すれば、昭和六〇年から昭和六一年一、二月にかけての時期に限ってみても、被告人FがGから借金の取立てを受けていたことは到底否定し難いところ、前記各供述調書等の関係各証拠を検討してみても、その際、被告人FがGに対し、西仙北の乙山セブンの売却代金による充当を主張したり、自己の債権の存在を訴えたような形跡は全く窺われないばかりか、かえって、L子の右検察官調書等の関係各証拠によれば、昭和六〇年夏ころ、同女は、Gから呼び出され、被告人Fに話しても埓が明かないので、権利金の残金として、店の売上げを少しずつでもいいから持って来るように要求されたことから、L子がGに対して毎週三万円ずつ支払うことを約し、後日そのことを被告人Fに話したものの、同被告人が何も言わなかったので、L子は、被告人Fと別居する翌六一年二月ころまで毎週三万円ずつGに支払いを続けたことが認められることなどに照らすと、MがSに支払った西仙北の店舗の売却代金三〇〇万円は、権利金に充当される金員ではなかった可能性も十分に考えられ、いずれにせよ、昭和六一年当時においても、Gとしては、被告人Fに対して権利金の残金が存在すると認識し、また、被告人Fも同じ認識でいたことは否定し難いというべきである。

これに対し所論は、L子のGに対する毎週三万円の支払いは、L子が被告人Fから、西仙北にあった乙山セブンの売却代金との相殺の事実を知らされていなかったために、Gから言葉巧みに支払いを求められ、これに応じたものと思われるなどと主張するが、関係各証拠によれば、その当時被告人FとL子とは、丙川パークビルの三階に同居して一緒に乙山セブンを経営していたことが認められ、L子がGに対する権利金の分割払いの事実を被告人Fに全く話さないというのは不自然である上、L子は右検察官調書中で、被告人Fに対し、Gに対する分割払いの事実を話した旨明確に供述していることに照らしても、右所論は採用できない。

また、所論は、原判決によれば、昭和六一年二月から同年六月までL子が乙山セブンの経営から手を引いていた期間中、被告人FからGに対して権利金の残額の支払いはなされておらず、この間、Gが被告人Fに対して権利金の残額の請求をしていないことが窺われるのであって、このことは、Gが被告人Fに対して権利金の残額の請求権を有していなかったことを示すものであるなどと主張するが、前記N子の検察官調書によれば、Gが、盛岡市清水町にあった戊田メディアの事務所を閉鎖して、同市向中野のアパートに事務所を移転した昭和六一年四月ころ以降も、被告人Fは、向中野のアパートに度々顔を出していたが、Gに金を渡すのは一週間に一回位であり、Gに金を持って来られない言い訳をしたりしていたことが認められるほか、Qの検察官調書(甲四二九、<51>一〇一二九丁以下)によれば、同人は、被告人Fが乙山セブンの三階でやっていたもぐりのマージャン荘に出入りしていたとき、Gから同被告人に借金の返済を催促する電話がよくかかって来ていたことが認められるところ、これらの事実によれば、L子が昭和六一年二月ころいったん乙山セブンの経営から手を引いた以降も、Gは被告人Fに借金の返済を迫っていたものと十分認められるのであって、右所論は採用の限りではない。

なお所論(控訴趣意書四七頁、弁論要旨三三頁)は、N子の右供述調書の信用性に関し、同女が昭和六一年五月二日に乙山セブンに出向きL子から二万円を受け取ったとの供述は、その当時L子は乙山セブンで働いていないことが証拠上明らかであるから信用性がなく、また、L子が被告人Fと一緒に戊田メディアに出向き借用書を書いているのを見たという供述も、同女が、取調べ段階で右事実を述べていないことや、当審公判においてこれを否定する供述をしていることからすると、信用性に乏しいものであり、これらの点を含め、右供述調書中のN子の供述は、誤解して供述したり、記憶が曖昧なまま捜査官の誘導に乗り供述した可能性があり、信用性に疑いがある旨主張するけれども、前記のとおり、被告人FがGから借金返済の督促を受けていたことについては、同女のみならず複数の者が供述していることや、後述するとおり、Gが貸金の台帳として使用していたノートの中に被告人Fの氏名も記載されていたことなどに照らすと、N子の右供述調書に所論指摘のような問題点があるとはいえ、被告人FがGから借金返済の督促を受け続け、そのような状態はN子がGのアパートを出た昭和六一年七月初めまで続いていた旨のN子の供述は、基本的に信用できるものと認められる。

他方、権利金に関する被告人Fの供述についてみると、以下のとおりその供述の変遷には著しいものがあり、到底信用することはできない。すなわち、検察官調書(乙一七二、<57>一一一三三丁以下)では、「Gから直接権利金を支払うよう催促されたことはなく、みちのく銀行からL子名義で三〇〇万円を借り入れたのは内装工事代金を支払うためであり、その三〇〇万円の中から権利金の一部を支払ったことはない。権利金については、内装費をこちらで出していたので、権利金を高く見積もっても残り一五〇万円を支払えばよく、それに西仙北の店が誰かに売れたと聞いたので、その金が入ればこの一五〇万円も支払わなくてよいと当時は考えていた。昭和六一年三月ころ、Rが乙山セブンにGの債権の取立てに来て、ノートを見せて借金の返済を迫ったことから、自分としては支払う必要がないと思っていたので、翌日Gの事務所に行って同人に問い質したところ、その場はうやむやにされて終わった。」などと供述するのに対し、原審公判(原審一四回、<68>一一四五丁以下)においては、「丙川パークビルの乙山セブンが開店する前に、みちのく銀行から三〇〇万円を借り入れ、権利金の残金一五〇万円を支払うつもりでGに連絡したところ、同人から、西仙北の売却代金がまだ入っておらず、内装屋に現金で払わなければならないので、三〇〇万円下ろしたならとりあえず全額渡してくれと言われて、三〇〇万円を渡した。昭和六〇年の一一月か一二月ころ、Rが乙山セブンにGの債権の取立てに来たが、それ以前に戊田メディアの電話番をしていたTという人物から、Gが西仙北の売却代金三〇〇万円を買い手から受け取ったという話を聞いていたので、Rが来た翌日Gの事務所に行き、Gに対し、Tから聞いた話をしたが、結局その場はうやむやにされてしまい、その後債権の取立てに来ることはなかった。」などと捜査段階と明らかに異なる供述をしており、また、当審公判(当審三回、<81>六五丁以下)では、「Rという暴力団が、Gから頼まれたといって丙川パークビルの乙山セブンに取立てに来たので、その翌日Gのところに行き、西仙北の乙山セブンの売却代金をSが受け取っていることは知っている、うそ言うななどと同人を問い詰めたところ、Gは、その場に土下座して謝り、差額の一五〇万円については一銭もないので払えないと言った。」などと、これまた捜査段階や原審公判の供述と異なる供述をしているのであって、当審において弾劾証拠として取り調べた被告人Fの平成三年一一月一三日付け警察官調書(乙六)において、「昭和六一年の三月か四月ころ、RがGの債権を払えと乙山セブンにやって来たので、その翌日、Gの事務所に行って文句を言ったところ、Gから、西仙北の売却代金が入らないと言われ、自分としても、丙川パークビルの乙山セブンの方の金額ははっきり覚えていなくても、借金は残っているという気持ちもあったので、強く話すこともできず、その話はうやむやになった。」などと前記各供述とも異なる供述をしていることに照らしても、この点に関する被告人Fの供述を信用することは到底困難であるといわざるを得ない。

以上の次第であるから、権利金に関する所論は採用の限りではない。

ところで、被告人Cは、原審公判(原審九回、<65>五二四丁表、五二七丁裏)において、Gを誘拐した後同人のアパートへ家捜しに行った際、被告人Fがノートみたいな書類の中から書類を抜いたのを見たが、その書類は被告人Fの借用書ではなかったかと思うなどと供述し、当審公判(当審一五回、<83>七四八丁)では、Gのアパートに家捜しに行った際、バインダー式のノートを見ていた被告人Fが、その中から用紙を抜き取ってそれをもみくちゃにし、雑記帳みたいなノートからも抜き取るしぐさをしていたなどと供述しているところ、右両者の供述は必ずしも同じ内容ではなく、時期的に後の供述である当審公判の供述の方がより詳細になっていることなどに照らすと、右各供述をそのまま採用することについては慎重にならざるを得ないけれども、N子の前記検察官調書(一〇一六一丁裏)によれば、Gは、B五判の半分位の大きさの黒表紙のルーズリーフ式手帳を貸金の台帳として使用しており、被告人Fから返済を受けた都度、右手帳にその金額を記載していたことが認められることや、被告人Cは、検察官調書(乙一四、<42>七四三三丁)において、Gのアパートに家捜しに行った際、被告人Fは、既に部屋の中を知り尽くしている様子で、驚くほど手際よく何通かの書類を次々と引き抜いたり、ノートなどをぱらぱらめくっていたなどと供述していることのほか、この点に関する被告人Fの供述をみると、検察官調書(乙一七七、<57>一一二六五丁)では、G方にあったノートには七、八十人の名前と借金額が書いてあり、その中には、自分に対して七〇〇万円か一〇〇〇万円貸してある旨の記載があったが、そんな金額を借りた記憶がないのでうそを書いたものと思ったなどと、また、原審公判(原審一四回、<68>一二四六丁)においては、Gのアパートを家捜ししていた際、バインダー式のノートファイルを三冊位見付け、その中には自分に対し七〇〇万円か一〇〇〇万円貸してあるような記載もあったなどと、更に、当審公判(当審五回、<81>一七五丁)においては、本件犯行後、被告人G宅に被告人らが全員集まった際、被告人Bからファイルの一枚を渡されて、その中に自分の名前があるのを初めて知ったなどと供述しており、右各供述内容の個々の点についての信憑性はさておき、被告人F自身、G方にあったバインダー式ノートに、金の借り主として同被告人の氏名が記載されていたことを一貫して認める供述をしていることなどを併せ考慮すると、少なくとも、本件犯行当時Gが貸金の台帳として使用していたノートの中に、Gからの金の借り主として被告人Fの氏名が記載されていたことは十分に肯認することができる。

そこで、以上検討したところに加えて、被告人FがGのもとに出向き借金の返済をしたり、Gから借金の返済を督促されていた旨述べる、前記N子及びPの各検察官調書やO子の警察官調書等の関係各証拠(なお所論は、同人らが、被告人FがGから借金の督促を受けていた場面を目撃した旨供述しているのは、被告人Fが以前Gから手形を担保に二口で合計七〇万円を借りたり、マージャンの賭け金として一〇万円等を借りたことがあり、その返済をしていた場面をたまたま目撃したものと考えられるのであって、同被告人がGに多額の借金を有していたとの認定の根拠とはなり得ないなどと主張するが、右各供述調書中の供述をみると、そのような場面を目撃した際の供述とは到底解せられず、所論は採用できない。)を総合すれば、所論が指摘するように被告人FのGに対する借金の具体的な金額については証拠上明らかでないとはいえ、被告人Fは、本件犯行のかなり前から、Gに対して、乙山セブンの権利金の残額(その額については証拠上必ずしも明らかでないが、L子の明確な供述や、前記のとおり権利金に関する被告人Fの供述は信用性がないことに照らすと、被告人Fがみちのく銀行から借受けをした中からGに支払った一時金は二〇〇万円と認めるのが相当であり、その後L子が昭和六〇年夏ころから翌六一年二月ころまで毎週三万円ずつGに支払いを続けた分を差し引くなどしても、権利金のほか敷金ないし保証金としてSに支払うことになっていた五〇万円を含めれば、本件犯行当時少なくとも一五〇万円程度の残額はあったことが窺われる。)など相当額の借財があって、Gから返済の督促を受けていたものであり、しかも、本件犯行当時においては、その返済にかなり窮していたものと認められ、この点に関する原判決の前記認定に誤りはなく、所論は採用の限りではない。

<2> 被告人FのG以外の者に対する借財の有無について

所論は、原判決は、被告人Fの本件犯行当時における借財状況に関する司法警察員作成の捜査報告書(甲四一二、<51>九八九三丁)その他の関係各証拠を総合すると、本件犯行当時、被告人Fは、G以外の者に対して多額の借金を負っていた旨認定判示しているが、原判決の認定した借金の額には問題がある上、同被告人は、いわゆるサラ金を除いて借金の返済の督促を受けてはおらず、サラ金の借金についても、同被告人は、L子を通じて乙山セブンの収入で支払っていたためその返済の督促は受けていなかったのであって、被告人Fが、本件当時、経済的にかなり逼迫していたとの原判決の認定判示は誤っている旨主張する。

しかしながら、被告人Fが、本件当時、G以外の者に対しても多額の借金を抱えて経済的にかなり逼迫していたことは、前記各証拠のほか、原判決が説示しているとおり、被告人Fは、昭和六一年二月に、それまで丙川パークビルにあった乙山セブンの経営を任せていたL子が別居して、同女が同店の経営から手を引いてから途端にその経営がうまく行かなくなり、結局、同年六月になって、L子に許しを乞うて再び経営を手伝って貰うようになったこと、しかし、同月には、乙山セブンの家賃の滞納がかさんで丙川パークビルからの立退きを余儀なくされたこと(これに反する被告人Fの供述は、不自然であり到底信用できない。)など関係各証拠から十分に認められる事実に照らし、疑問を差し挟む余地はない。なお、被告人Fは、当審公判(当審二回、<81>一〇丁表以下)において、前記捜査報告書記載の借財について反論を加えているが、そのままには信用し難い供述であり、原判決の右認定を左右するものとはいえない。所論は採用できない。

その他縷々主張する所論に鑑み、原審及び当審で取り調べた関係各証拠を検討してみても、本件犯行当時、被告人Fが経済的にかなり逼迫した状態に置かれていたことが明らかであり、また、被告人FがGに対して債務を負い、その返済に窮していたと認めるのが相当であるとした原判決の認定に誤りはなく、被告人Fが、本件犯行当時、そのような経済状態にはなかったのであるから同被告人に原判示のようなG殺害の動機はなかったとする所論は、採用の限りではない。

(2) Gの経済状態と本件犯行の動機に関する主張について

所論は、本件犯行当時、Gが経済的にかなり逼迫していたことは証拠上明らかであるところ、このようなGから金員やその他の財物を強取することを目的に本件犯行を計画するとは考えられない旨主張する。

しかしながら、関係各証拠によれば、本件犯行当時、Gが経済的にかなり逼迫した状態にあり、そのことを被告人Fが知っていたことは認められるけれども、被告人Fが原判決の認定したような動機、すなわち、Gを殺害して一挙に自己の債務を免れると同時に、あわよくば同人の金員その他の財産を奪取しようとの考えで本件犯行を計画したものであれば、Gが経済的にかなり逼迫していたことを知っていたことと、同被告人が本件犯行を計画したこととは格別矛盾するものではないところ、そのような犯行の動機を認めるに足る状況が存在したことについては、前記検討したとおりであり、原判決の右動機の認定に誤りがあるとは認められないから、所論は採用の限りではない。

(3) 被告人Fの本件犯行の事前謀議に関する主張について

所論は、本件犯行の遂行過程からみても、被告人Fは、事前謀議に参加しておらず、他の被告人らに追随したものであり、本件犯行の遂行過程において主導的な役割を果たしていなかったことが認められるとし、具体的主張として、被告人Fは、本件当日まで、Gの監禁場所となった空き家の存在を知らず、また、本件で使用された改造ワゴン車、ガムテープ、ロープ(ひも)、Gを埋めるための穴を掘るのに使用したスコップを誰が何時どのように準備したか知らなかったこと、急きょ空き家から移動することになったモーテルについても、同被告人は移動先を言われるまでその存在を知らなかったこと、小岩井農場は、被告人Fの知っていた場所ではあるが、被告人Fが同農場を殺害場所として提案したことはなく、実際の古井戸探しは功を奏さなかったこと、被告人Fは、穴のある場所に案内されて初めて穴の掘ってあることに気付いたものであることなどを指摘し、以上の本件犯行に供された場所や物は、ほとんどが被告人Fの知らないものであり、これらを熟知していたのは、被告人Bや同Cなど他の被告人らであって、このことは、被告人Fが本件犯行の事前謀議に参加していなかったことを示すものであるなどと主張する。

しかしながら、右所論のうち、被告人Fが、本件当日まで空き家の存在を知らず、改造ワゴン車、ガムテープ、ロープ(ひも)を誰が何時どのように準備したか知らなかった、小岩井農場を殺害場所として提案したことはないとの点については、本件犯行前日の本件謀議やその後行われた空き家の下見に全く参加していないという、信用性の乏しい被告人Fの供述を前提とするものであって、採用の限りではない。また、空き家から移動したモーテルについて被告人Fは移動先を言われるまでその存在を知らなかったとの主張についても、同モーテルを以前から知っていて同所への移動を提案した被告人Cの本件犯行に対する関与の程度が問題にされることはあっても、その所在を知らなかったからといって、そのことから直ちに被告人Fが本件犯行において主導的役割を果たしていなかったなどということはできない。更に、被告人Fは、穴のある場所に案内されて初めて穴の掘ってあることに気付いたものであるとの点についても、Gを埋めるための穴が掘られているのを知った時点で初めて同人が殺害されるのを知ったなどという、到底信用性の乏しい被告人Fの供述を前提とするものであり、これまた採用の限りではなく(なお、この点については、後述する本件犯行で使用された車両の台数のところで再述する。)、結局所論はいずれも根拠を欠くものであり採用できない。

(4) 被告人Fの本件犯行後の行動に関する主張について

所論は、本件犯行後の被告人らの行動につき、具体的な主張として、本件犯行によって得られた経済的利益としては、Gが使用していた外国製普通乗用自動車(ドイツBMWE-C五二八、以下「BMW車」という。)の売却代金のみであるところ、当初から同車を奪う計画を立てていたとは考えられず、関係各証拠によれば、本件犯行後同車を管理していたのは被告人Bであり、その処分のために行動していたのは被告人Cである上、売却代金の分配をリードしたのは被告人Bであって、被告人Fは、被告人Bから分配金を手渡されているだけであること、本件犯行後、Gの債務者リストに基づいてGの債権の取立て(いわゆる切り取り)が行われているが、この取立てに関わったのはほとんど被告人Bと同Cであり、被告人Fは、十和田ガードレールの件で一回被告人Bに誘われて行ったのみであり、しかも、そのときは一円も回収できずに帰っていることなどの本件犯行後における被告人らの行動をみても、被告人F以外の被告人らが中心的、主導的役割を果たしていたもので、被告人Fは、他の被告人らに追随したに過ぎないことが明らかであり、被告人Fが本件犯行において主導的役割を果たしたとの原判決の認定は、この点でも誤りである旨主張する。

しかしながら、関係各証拠によれば、所論の指摘するとおり、本件犯行後におけるBMW車の処分やGの債権の回収といった一連の行為においては、被告人Bや同Cが、中心的、主導的に行動しており、被告人Fは、積極的に行動したとは認められないけれども、右の事実は、被告人Bや同Cの本件犯行における立場や役割の大きさを窺わせるものであるとはいえ、そのことから直ちに、被告人Fが本件犯行において主導的役割を果たしていなかったなどといえないのみならず、原判示の被告人Fが本件犯行を計画した動機からすると、同被告人としては、Gの資産を処分したり、債権を回収して金銭を得ようとすることについては、他の被告人ほどには積極的でなかったと考えられるのに対し、原判示のとおり、被告人Bや同Cは、もともとGの財産目当てに本件犯行に加わったことからすると、本件犯行によって現金を奪うことが出来なかったこともあって、BMW車の処分やGの債権の回収により積極的であったことも十分理解できるから、以上に照らすと、所論は採用の限りではない。

(5) 被告人Fに対する他の被告人らの非難に関する主張について

所論は、本件犯行後、他の被告人らの誰もが、被告人Fに対し、本件犯行によってほとんど得るものがなかったことを非難していないところ、仮に、原判決が認定するように、被告人Fが金品奪取を目的に本件犯行を他の共犯者らに持ちかけたものであるとすれば、Gの殺害行為に及んでも結局ほとんど得るものがなかったのであるから、被告人Fは他の共犯者からかなり激しく非難され、かなり厳しい報復ないし折檻にあっても何ら不思議でない状況であったのに、このような出来事はおろか他の被告人から被告人Fの失敗をなじる言葉さえ出ていないということは、被告人Fが金品奪取の目的で本件を他の被告人らに持ちかけていないことを示すものであるなどと主張する。

そこで検討すると、本件犯行でGから奪っためぼしい金品としては、BMW車一台だけであったにもかかわらず、関係各証拠を検討してみても、犯行途中や犯行後において、被告人Fが他の被告人から正面切って厳しく非難されたり、報復を受けたような形跡が窺われないことは、所論が指摘するとおりである。したがって、もし本件の経緯が、被告人Fが他の被告人らに対し、Gに現金が入るという話をし、他の被告人らがその現金目当てに本件犯行に及んだということであれば、所論指摘のとおり、他の被告人らが被告人Fを非難しなかったことは不自然といわざるを得ない(したがって、当審公判において、被告人Bが、犯行前日の謀議の際、被告人Fが、明日Gに金が入るということを間違いなく言ったなどと供述し(当審一〇回、<82>四六八丁裏)、被告人Cが、右謀議の際、被告人Fから、Gに金が入るのでそれを取って来るのを手伝わないかと言われたなどと供述している(当審一五回、<83>七三一丁裏)のは、にわかに信用できない。)。

しかしながら、被告人Dの原審公判における供述(原審六回、<63>一三八丁表)等の関係各証拠によれば、本件犯行後において、被告人Bや同Cから、被告人Fばかりが得をしたなどと、同被告人に対する不満めいた言葉が出ていたことが認められる上、被告人B(乙八、<41>七二〇七丁裏以下)及び同C(乙一三、<41>七三八八丁以下)の各検察官調書等の関係各証拠を総合すると、本件の経緯として、被告人Bと同Cは、昭和六一年七月上旬ころ、被告人Fから、Gの持っている土地など金目の物を奪い取ろうなどと誘われた際、Gを知っていた同被告人らとしては、同人が、多くの者に金を貸していて土地も所有し、外国車を乗り回していることから、かなり資産を有し現金も相当持っているのであろうなどと考えて、被告人Fの話に賛同し、その後被告人らの間でGの資産について格別話が交わされることもなく本件犯行が実行に移されたことが認められるのであって、以上のような経緯に照らすと、被告人B及び同Cとすれば(被告人D及び同Aについては、原判示のような同被告人らが本件犯行に加わった経緯からして、そもそも被告人Fに不満をいえるような立場にはなかったものと認められる。)、被告人Fから誘われた犯行であるとはいえ、Gの資産について自分たちの思惑が外れたことについて、正面切って被告人Fを非難することはできなかったものと思われる。以上に照らすと、被告人Fが他の被告人から正面切って厳しく非難されたりしたことがなかったからといって、被告人Fが金品奪取の目的で本件犯行を他の被告人らに持ちかけていないとはいえないから、所論は採用の限りではない。

(6) 本件犯行の計画性に関する主張について

所論は、<1>もし事前の謀議において、人を殺害することまでをも計画していたとすれば、死体の隠匿場所という重大な事柄については、綿密な打合せや準備を行うのが当然であるのに、本件の犯行遂行過程をみると、古井戸探しのためにかなりの時間を費やしてしまったばかりか、実際に古井戸を探すことはできなかったのであり、このことは、本件犯行が全体的に見て、計画性に乏しく、杜撰で場当たり的に行われたことを如実に示すものであるところ、右の事実は、事前謀議がなかったことを推測させるものであり、しかも、実際に右の方法でGを殺害するとすれば、殺害方法について更に具体的な打合せが必要であるが、この点について打合せがなされたことを示す証拠は全くなく、<2>また、仮に、Gを小岩井農場の古井戸に投棄して殺害するという計画が事前に話し合われていたとしても、もし、被告人Fがその謀議に加わり犯行計画を検討していたとしたら、同被告人が小岩井農場を捜査したのは本件犯行から六年近くも前のことであるから、入念な下見などの準備をしたはずであり、本件のような事態になるとは考えられないのであって、少なくとも被告人Fは、その話し合いには加わっていないと考えるべきであるなどと主張する。

しかしながら、<1>の所論が理由のないものであることについては、先に被告人Bの所論について述べたとおりである。また、<2>の所論についてみるに、なるほど、本件犯行の経緯をみると、すべてにわたって綿密な計画、準備の下に敢行されたとは必ずしもいい難い面があり、関係各証拠から認められる所論指摘のような被告人Fの経歴を考えると、所論は一見理由がありそうにみえるが、前述したとおり、金銭面においては借金を重ねるなどルーズであった被告人Fの一面をみると、同被告人が最初から本件犯行に参加したとすれば、入念な下見などの準備を整えて犯行を敢行したはずであると言い切ることは早計に過ぎるといわなければならない。そして、原判決が一六九頁において説示しているとおり、本件犯行の計画内容は決して杜撰なものとはいえないのみならず、犯行途中においても計画完遂のため臨機の措置がとられているところ、これについては、被告人Fの関与が不可欠であったと認められるのであって、以上に照らして所論は採用の限りではない。

(7) 本件犯行のために準備したとされる懐中電灯に関する主張について

所論は、原判決は、被告人Dが懐中電灯を準備したのは古井戸を探す際に使用する目的であったと認定しているが、実際に古井戸を探すときこれを使用したことを示す証拠はなく、また、もし、Gを古井戸に投棄する方法で殺害することを事前に計画していたとすれば、前もって懐中電灯を準備していたはずであって、このことから見て、被告人Dが被告人Cのアパートから懐中電灯を持って来たとしても、そのことから、本件謀議において、Gを古井戸に投棄して殺害することを計画していたと認定することはできず、少なくとも被告人Fは、懐中電灯の件には関与していないなどと主張する。

しかしながら、被告人Dは、その検察官調書中(乙二二、<42>七六七七丁)において、「これからもっと遅くなって暗い中を小岩井農場に行き被告人Fが言っていた井戸を探さなければいけないということが頭に浮かび、懐中電灯を持って行った方がいいのでないかと被告人Cに聞いたところ、同被告人が必要ないとも言わなかったので、目についた懐中電灯を持って行くことにした。」旨の供述をし、原審公判(原審六回、<63>一一一丁)においても同趣旨の供述をしているところ、右供述は具体的である上当時の状況に照らして自然であり、この点について同被告人が敢えて虚偽の供述をするとは考えられないから、十分信用することができるというべきである。そうすると、被告人Dの右供述によれば、同被告人が被告人Cのアパートから懐中電灯を持ち出したのは、それ以前において、被告人Fの提案により小岩井農場に行って古井戸を探す計画が立てられていたこと、すなわち、本件謀議がなされていたからにほかならないから、所論は採用の限りではない。

(8) 本件犯行の際、被告人Fが顔を隠したことに関する主張について

所論は、被告人Fは、空き家にGを誘拐した際、「顔を見られるとまずい。」といって陰に隠れていた事実が認められるところ、もしGを殺害することが当初から予定されていたとすれば、被告人Fは、顔を隠す必要などないのであって、右の事実は、被告人FがGを殺害する意思のなかったこと、Gが殺害されるということを知らなかったことを意味するものであるなどと主張するところ、証拠上、確かに所論指摘のような事実は認められる。

しかしながら、前述したとおり、本件犯行当時における被告人FとGとの関係が芳しくなかったことからすると、被告人Fが犯行の最初から顔を出すことによって犯行に支障が生じることを避けるため右のような行動をとった可能性や、あるいは、犯行が失敗した場合に備えて自己の保身のためそのような行動に出た可能性なども考えられるのであって、当初から殺害を予定していたとすれば被告人Fが右のような行動をとることは有り得ないと必ずしもいうことはできないから、所論は採用の限りではない。

(9) 本件犯行当時、被告人Fがターセル車を使用できなかったとの主張について

所論は、他の被告人らは、被告人Fが本件謀議に参加したことを示す根拠として、被告人Fがその際赤い車に乗って来ていたことを供述しているが、これに沿うU子の警察官調書(甲四二七、<51>一〇〇八八丁)は、内容が曖昧である上、捜査官による誤導の疑いがあって信用性に乏しいものであり、被告人Fの一貫した供述や、L子及びU子の当審公判における供述を総合すると、被告人Fは本件犯行当時、U子から、同女所有にかかる赤色のトヨタ・ターセル(以下「ターセル車」という。)を借りていないことが明らかであり、他の被告人らは、この点につき虚偽の供述をしたり、誤解に基づき供述をしている可能性が高いなどと主張する。

しかしながら、まずもって、被告人F以外の他の被告人らの供述をみると、ターセル車と思われる赤い車のみを根拠に被告人Fが本件謀議に参加していたと供述しているものではなく、右謀議の際、被告人Fが述べていたことなどを具体的に供述しているのであって、被告人Fが乗って来た車の点が、被告人Fの本件謀議の参加の有無に直ちに影響を及ぼすものとは思われない上、所論指摘の点を考慮してみても、被告人Fは本件犯行当時、U子からターセル車を借りた可能性は否定できないというべきである。すなわち、所論は、U子の右警察官調書の信用性の乏しさを指摘する一方、L子及びU子の当審公判における供述の信用性を強調して、本件犯行当時、被告人Fはターセル車を使用できなかった旨縷々主張するが、盛岡事件の発生から一〇年以上経過した控訴審の段階に至って、しかも被告人Fの供述がなされた後で行われたL子及びU子の当審公判における供述が、どの程度信用できるかどうかはさておき、U子の当審公判における供述は、結局のところ、本件犯行当時、被告人Fにターセル車を貸したかどうかはっきりしないというものであり、また、L子の当審公判における供述によっても、本件犯行当時、被告人Fがターセル車を使えなかったとまでは認められないのであって、むしろ、U子の右警察官調書中の供述が、それなりに具体性を有していることからすれば、その供述が全面的に信用できるかどうかはともかく、少なくとも本件当時Fがターセル車を使用できたことを肯定する限りでは信用できるものと認められる。なお、被告人Fは、当審公判(当審四回、<81>一五〇丁裏以下)において、本件犯行当時はU子と全く会っておらずターセル車を使用することはできなかったなどとして、当時の状況に関するかなり詳細な供述をするが、そのこと自体不自然と思われる上、原審において提出された被告人F作成の最終陳述書中の記載(二三丁表以下)や、当審で弾劾証拠として提出された同被告人の平成三年一一月一三日付け警察官調書(乙六)中の供述に照らしても、被告人Fの右供述を信用することはできない。以上の次第であるから、所論は採用の限りではない。

なお、所論は、原判決は、司法警察員作成の検証調書(甲一二六、<15>二一九六丁)の見取図の測定数値を根拠にして、本件犯行当時における被告人B宅の駐車場には、謀議に参加した者が運転してきたすべての自動車を駐車する余裕はなかったとの被告人Fの主張を排斥しているが、右検証調書は、本件犯行から五年も経過した平成三年八月に実施されたものであり、本件犯行当時と状況が変化したことも予想されるから、右証拠をそのまま根拠にすることはできないなどと主張するが、原判決の前記判断を左右するほどの主張とは解されない。

(10) 本件犯行において使用された車両の台数に関する主張について

被告人Fの弁護人は、弁論において、本件犯行において使用された車両の台数及びそれに関連して、概ね次のような主張をしている。すなわち、原判決は、被告人Fの提案により、Gの殺害方法を穴を掘って生き埋めにすることに変更し、スコップを購入した後改造ワゴン車に乗って穴を掘るのに適当な場所を探していたところ、同被告人の指示で改造ワゴン車が停止して、その後穴を掘ってGを殺害したとして、被告人Fが本件犯行の遂行を取り仕切ったような認定をしているが、右認定は、本件犯行で使用された車両が改造ワゴン車一台だけであり、同車両で被告人ら全員が行動を共にしていたことが前提となっているところ、被告人Fの捜査段階からの一貫した供述に加えて、信用性の高い被告人Dの当審公判における供述によれば、本件犯行において、改造ワゴン車の他にもう一台乗用車が使用されたことは明らかというべきである。そして、被告人Fの供述や被告人Dの当審公判における供述等を総合すれば、被告人Bと同Cが、自分たちの判断で、右乗用車を使ってGを埋めるための穴を掘る場所を探す目的で小岩井農場を走り回り、その場所を定めて幾らか穴を掘った上、Gや他の被告人を迎えに行き、Gを殺害する際にも右被告人両名がその場を取り仕切ったことが窺えるところ、計画が具体的でなく、場面場面において場当たり的に遂行されていったという本件犯行の特徴からすると、本件においては、小岩井農場で適当な古井戸が見付からなかったという事態を受けて、その後どのように犯行を遂行していくかを決めた者が、本件犯行の首謀者あるいは中心的な役割を果たした者ということができるから、以上に照らすと、被告人Fが、本件犯行の首謀者でないことは明らかであり、原判決の右認定は誤りである。以上のような主張をする。なお、この点については、被告人Dの弁護人も、弁論において、被告人Dの当審公判における供述に照らし、本件犯行で使用された車両の台数は二台であったと解するのが合理的である旨主張する。

そこで、検討すると、被告人Dは当審公判において、概ね次のような供述をしている。すなわち、「自分は、これまで、捜査段階や原審公判において、盛岡事件で使用された車は改造ワゴン車一台であると供述してきたが、事件をもう一遍とらえなおしてみたところ、空き家からモーテルに移動する際や、モーテルを出て小岩井農場に赴いた際に、改造ワゴン車の他にもう一台乗用車が使用されたように思う。空き家からモーテルに移動する際、自分が改造ワゴン車を運転したが、自分としては被告人Cの運転する乗用車に先導されてモーテルに移動した記憶がある。また、モーテルを出て小岩井農場に向かう際にも、被告人Cが運転し、もう一人被告人Bか被告人Fのどちらかが乗っている乗用車の後ろに付いて行った記憶がある。小岩井農場において、皆で歩いて古井戸を探したが適当な井戸が見付からなかったが、その後、被告人F、同B、同Cの三人が車の外で何か話していたので、自分もその方に近付いて行ったところ、被告人Bから、穴を掘ってGを埋めるという話を聞いた。その後、被告人Bと被告人Cが乗用車に乗ってどこかに出掛けて行き、Gとその他の被告人は改造ワゴン車に残っていたところ、しばらく経ってから乗用車で出掛けていた被告人Bと被告人Cが戻って来た。そして、被告人BがGに対し、今からVに会わせるという話をしたところ、Gの方から自分を縛ってくれと言い出して、被告人AがGを縛った。そして、自分の運転する改造ワゴン車には、G、被告人A、被告人Fが、被告人Cの運転する乗用車には多分被告人Bが乗り、乗用車が改造ワゴン車を先導して出発し、Gを埋めた穴の場所に向かった。」。概ね以上のような供述をしている。被告人Dの右供述は、単に使用された車両が二台であったというだけの供述にとどまらず、なぜ使用された車両が改造ワゴン車一台でなく他に乗用車もあったと思うかについて、本件犯行の前日被告人B宅で行われた謀議の際、被告人Fから、検問があった場合、先導する車が走っていて捕まったことが分かれば、その間に逃げることができるから、車は二台必要だという話が出たこと、被告人Dが同Bと二人で、Gをおびき出して空き家に連れて行った際、Gが被告人Bに対し、車があるから誰かが来ているのかなどと尋ねていたこと、被告人Dが改造ワゴン車を運転して、空き家からモーテルに赴くときや、その翌朝モーテルを出て小岩井農場に向かった際、被告人C運転の乗用車に先導されて走った記憶が残っていること、自分が改造ワゴン車を運転してGを埋めた穴に向かう途中で、小岩井農場の大きい道路からひとつ目の道路を左に入りT字路を右に曲がった時点で、先導する乗用車から被告人Cが手を出して止められ、そこからユーターンして元の道路に出た記憶があることなど、改造ワゴン車の運転を受け持った立場からかなり具体的に供述しており、しかも、Gを埋めた場所をどのようにして決めたかなどという点については、原判決の認定よりは、被告人Dの右供述するところの方がむしろ自然で合理的であるといえなくもない。加えて、本件犯行に使用された車の台数の点は、被告人D自身の罪責や犯情に格別影響を及ぼす事柄ではないことや、被告人Dは、その人的関係からすれば本来被告人Bや同Cをかばう立場にあるとみられ、敢えて被告人Dが従前の供述を覆してまで当審に至って虚偽の供述をするとは思われないのであって、以上の諸事情を併せ考慮すると、被告人Dの当審公判における供述は、信用性がないとして一概に排斥することはできず、本件犯行の際、改造ワゴン車の他に被告人Dの供述するような乗用車が存在した可能性を否定することはできないと考えられる(もっとも、被告人Dの当審公判における供述が右のようなものであるとはいえ、同被告人は、捜査段階や原審公判においては、小岩井農場に赴く際などに使用された車両は改造ワゴン車一台であった旨供述していたものであり、また、同被告人及び被告人F以外の被告人は、捜査段階や原審及び当審各公判を通じ一貫して使用された車両は改造ワゴン車一台であった旨供述していることに加え、被告人Dの前記供述を裏付ける確実な証拠は格別存在しないことをも併せ考えると、この点が、被告人らとりわけ被告人B及び同Cの本件犯行において果たした役割、ひいてはその犯情に多大な影響を及ぼす可能性が高いことにも鑑み、少なくとも、被告人B及び同Cの関係で、被告人Dの右供述を直ちに採用して、その供述するような事実があったと認定することについては、当裁判所として慎重にならざるを得ない。なお、この点については、被告人B及び同Cの量刑を判断する際改めて検討する。)。

しかしながら、被告人Dは、本件犯行に使用された車両の台数の点こそ、当審公判において被告人Fの供述と符合する供述をするに至ったとはいえ、犯行に至る経緯や犯行状況については、被告人Dは当審公判においても、基本的に捜査段階や原審公判における供述を維持しているのであって、被告人Fの捜査及び公判を通じての一連の供述とは全く異なるものであり、被告人Dが当審公判において前記のような供述をしたからといって、直ちに被告人Fの供述の信用性が認められるものではないことは明らかである。かえって、被告人Dの当審公判における供述をみると、前記のとおり、本件犯行の前日被告人B宅で行われた本件謀議の際、被告人Fから、検問があった場合、先導する車が走っていて捕まったことが分かれば、その間に逃げることができるから、車は二台必要だという話が出たことや、Gの殺害手段を古井戸に投げ入れる方法から穴に埋める方法に変更する際、被告人Fもその決定に関与していたこと(この点所論は、被告人Dは当審公判において、被告人Bが穴を掘ってGを埋める話を提案した旨供述していることなどを根拠に、被告人B及び同Cは、自分達の判断でGを埋めるための穴を探すという行動をとった旨主張するが、前記のとおり、被告人Dは、三人に近付いて行った際被告人Bから、Gを穴を掘って埋めるという話を聞いた旨述べるに過ぎず、同被告人が穴を掘ってGを埋める方法を最初に提案したとまで述べていないのみならず、被告人Dの右供述からすれば、被告人Fも殺害方法を変更する際その決定に関与したことは明らかというべきである。)など、被告人Fが本件犯行において極めて重要な役割を果たしていたことを明確に供述しているのである。要するに、被告人Fの関係において、被告人Dの当審公判における前記供述を採用し、小岩井農場に赴いた際などに改造ワゴン車の他にもう一台の乗用車が使用された事実があったとして本件犯行を考えてみても、これによって、被告人Fの供述の信用性が認められるものでないことはもとより、被告人Fが、本件謀議に参加していないとか、本件犯行の首謀者ではないなどということはできないのであって、事前謀議の段階から本件犯行全体を通じて主導的かつ中心的役割を果たしたとの原判示認定について格別疑問を抱かせるものとはいえない(もっとも、被告人Dの当審公判における前記供述のような事実があったとすると、原判示認定のうち、被告人Fの提案により、Gの殺害方法を穴を掘って生き埋めにすることに変更したとの点、穴を掘る適当な場所を探すために走行していた改造ワゴン車が、原判示七ツ頭沢橋手前に至り、被告人Fの指示で停車したとの点などについては、そのような事実がなかった可能性も否定できないことになるが、これらの事実を除いて考えてみても、前記説示したところに照らし、被告人Fが本件犯行において主導的かつ中心的役割を果たしたことは十分に肯定できる。)。

したがって、以上の次第であるから、所論は理由がなく採用できない。

(五) その他、縷々主張する所論に鑑み、原審及び当審で取り調べた関係各証拠を精査検討してみても、被告人Fが、Gに対する債務の返済に窮した挙げ句、同人を殺害して一挙にその債務を免れると同時に、あわよくば同人の金員その他財産を奪取しようとの考えを抱くに至って、本件犯行計画を他の被告人らに持ちかけたとみるのが相当であり、本件犯行は、被告人FがGに対する債務を免れるとともに、金品を奪取する目的で、被告人Bらに持ちかけて一連の犯罪集団の母体を形成し、謀議を主宰してGの殺害を含む周到な計画を立案したとして、被告人Fが盛岡事件において中心的な役割を果たしたとする原判決の認定判断に誤りはないのであって、被告人Fの所論、すなわち、被告人Fは、本件謀議に参加したことはない旨、Gに対し制裁を加える目的で本件犯行に関与したに過ぎず、営利目的や財物奪取の目的でこれに加わったものではなく、本件犯行でGから奪取したとされる個々の財物について、これらが奪取されたという認識あるいは不法領得の意思を有していなかった旨、Gを埋めるための穴が掘られている時点で初めて、Gが殺害されるかも知れないと認識したものであり、本件における被告人Fの行為は、監禁及び殺人にとどまる旨、そして、本件犯行において、被告人Fが、中心的、主導的役割を果たしたことはない旨の各主張は、いずれも採用の限りではない。

4  以上の次第であるから、原判決に、被告人B及び同Fの各所論指摘のような判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認はなく、同被告人らの各論旨はいずれも理由がない。

二  郡山事件について

1  被告人Bの所論について

(一) 被告人Bの所論は、次のようなものである。すなわち、<1>原判決は、被告人Bが、被告人Aに対し代替案を求めて、本件犯行の被害者であるWの名を引き出した旨判示しているが、Wの名前が出た経緯をみると、被告人Bは、帰りたいとの気持ちから、皆が帰るような雰囲気になってくれなければ自分も帰れないと思い、他に誰もいないだろうと言ったところ、被告人Fが被告人Aに対し、地元だから誰か知っているだろうと申し向けたことから、同被告人が三人の名前を挙げ、最後にWの名前を挙げてしまったというものであり、他の共犯者らが、当時いずれも金が欲しかったことからすれば、右のとおり、被告人Bが、言葉の上ではWの名前を引き出すきっかけを作ったからといって、これを責めるのは酷である。<2>原判決は、被告人Bが、平成元年七月二〇日の午前中の段階において、Wの殺害を強く主張して反対論を押し切った旨判示しているが、Wを殺害するという話が具体的に出てきたのは、二〇〇〇万円受取りの話が現実化した同日夜のことであり、しかも、W殺害を絶対の条件として終始主張したのは被告人Fであって、被告人Bが、同日午前中の計画立案の段階で、Wの殺害を強く主張して反対論を押し切ったなどということはあり得ない。<3>原判決は、被告人Bが、被告人Eと原審分離前の相被告人Xに殺害役を命じたと判示しているが、被告人Bは、被告人Fに命じられるまま、殺し役に決まったことを単に被告人EやXに告げたに過ぎず、殺害役を命じたものではない。<4>原判決は、被告人Bが、Wの殺害現場において、被告人EとXに合図を送って殺害を命じ、その最中にWの腹部等を殴打してから再度の絞頚を命じて止めを刺した旨判示しているが、被告人Bがそのような行為に出たことはない。原判決には、以上のような事実認定の誤りがあり、これらの事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。

(二) しかしながら、原判決挙示の関係各証拠を総合すると、所論が事実誤認であると主張する原判示の各事実は、いずれも合理的な疑いを超えて十分これを肯認できるのであって、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決に、所論指摘の事実の誤認があるとは認められない。

(三)(1) 所論に鑑み若干検討すると、まず、<1>の点についてみるに、被告人B(乙五四、<45>八五二三丁裏)を含め、被告人A(乙四〇、<44>八〇七七丁表)、同D(乙七〇、<46>八八七九丁表)、及びX(乙四四、<44>八二九八丁表、裏)は、いずれも、その各検察官調書中において、被告人ら及びXが、株式会社丁原組社長(以下「Y」という。)の誘拐に失敗していったん福島県耶麻郡《番地略》所在の「甲田平猪苗代」別荘地区の貸別荘(番号三九〇号、以下「貸別荘」という。)に赴き、Yを誘拐することは難しいということになり、今後のことについて話を交わす中で、被告人Bが被告人Aに対し、「他に誰かいねえのか。」などと尋ねたことから、同被告人が、乙野塗装の社長すなわちWの名を出した旨一様に供述しており、また、被告人A(原審二二回、<70>一九五五丁裏・当審二〇回、<84>一〇六三丁表)及び同D(原審二一回、<70>一八〇九丁裏ないし一八一〇丁表・当審二五回、<85>一四二四丁裏)は原審及び当審各公判においても右供述に沿う供述をし、更に、Xも原審公判(原審二一回、<70>一七四一丁表)において同旨の供述をしていることからすれば、これら各供述の信用性はかなり高いものと認められる。これに対し、被告人Bは、原審(原審二三回、<71>二〇二五丁裏等)及び当審(当審二一回、<84>一一八五丁裏)各公判において右所論に沿う供述をするが、後述するとおり、同被告人の公判段階における供述は、右供述する点を含め全体として信用性に乏しいといわざるを得ない。また、被告人Cは、当審公判(当審二三回、<84>一二六七丁裏以下)において、貸別荘内において、犯行を止めて帰ることを主張する被告人C、同B、同Dと、犯行の継続を主張する被告人F、同A、Xらと険悪な雰囲気になり、恐怖を感じて被告人Cらが折れたところ、被告人Fが同Aに対し、「地元だべ。何かないのか。」などと言ったことから、被告人Aが、自分の方で探すという返事をして、何人かの名前を出した中でWの名が出て来たなどと、被告人Bの供述に沿う供述をするが、本件犯行に関する、同被告人の当審公判における供述も、後にみるように、全体として不自然な点が多い上、捜査段階や原審公判においては右のような供述はしていなかったものであり、被告人A、同D及びXらの前記各供述と対比してみても、その信用性は低いといわざるを得ない。したがって、以上検討したところに照らし、<1>の所論は採用の限りではない。

(2) 次に、<2>の所論についてみると、同所論に関連して、被告人Fは、原判決は、七月二〇日の朝の時点でW殺害までの全犯行に関する共謀が遂げられた旨認定判示しているが、同月一九日の夜から翌二〇日朝にかけての謀議においては、誘拐の対象者をWにするということについて打合せがなされたのみであり、その時点における謀議の内容は、漠然とした営利目的の誘拐にとどまったなどと、原判決の右事実認定の誤りを主張する。また、被告人A及び同Eも、その各控訴趣意や弁論において、七月二〇日の朝の時点でWを殺害することに確定していなかった旨主張する(なお、被告人Eの弁護人は、同被告人が確定的にW殺害を知ったのは、七月二〇日の夜か翌二一日の朝に被告人Bから言われた時点であり、もし七月二〇日に行われた貸別荘での謀議の際に、W殺害について具体的かつ明確に決定されていたとすれば、その話し合いに被告人Eは参加していなかったことになる旨主張する。)ほか、被告人Cの弁護人も、検察官の控訴趣意に対する答弁において、同旨の主張をしている。

そこで、右の各主張をも併せて(ただし、被告人Fの所論は、本件犯行についての明確な謀議の存在自体を否定するものであり、後に同被告人の他の主張と併せて判断する。)、所論について若干検討すると、原判決が、「主張に対する判断と補足説明」の項の第二の一(共謀の内容及び成立時期)で適切に説示しているとおり、関係各証拠を総合すれば、七月二〇日の午前一〇時ころ、被告人Aが、貸別荘から、福島県郡山市富久山町所在の株式会社乙野塗装株式会社(以下「乙野塗装」という。)の事務所に電話をかけてWと話をした後、被告人ら及びXが、貸別荘内洋間において、Wを誘拐して現金を奪取した後、同人を殺害することに決し、殺害するまでの全犯行に関する共謀を遂げるに至ったとの原判示事実は、合理的な疑いを超えてこれを肯認することができ、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決の右認定に誤りがあるとは認められない。

すなわち、被告人Dは、その検察官調書(乙七〇、<46>八八八五丁表ないし八八九七丁裏)において、概ね次のような供述をしている。すなわち、七月一九日の夜は、被告人Fが「放せばしゃべられるからうまくない。」などと言い、被告人Bも「穴を掘って埋めねばなんねんべな。」などとしゃべったりしたものの、このときは最終的にどうするかはっきり決まらなかった。翌二〇日の朝、被告人ら全員が貸別荘の洋間に集まって弁当を食べた後、全員で、Wを呼び出す場所や、誘拐する手順、金を取る方法など犯行の段取りを話し合い、引き続き、Wから金を取った後最終的にどうするかの話に及び、被告人Fか同Bが、「放してやれば警察さ言われるから、いずれ殺さねばだめだ。」などと言った。自分も、そうするしかないと思っていたが、できれば殺さないでうまく金を取れればいいという気持ちがあったので、「脅せばちょこっと言わねんでは。」とか「放してやってもいいんでねえか。」とか言った。すると、被告人Bが「いずれ殺さねば警察に訴えられるから殺さねばだめだ。」と言ったので、自分も殺すしかないと思い、「わかった。」と答えた。この話のとき、被告人E、同C、Xもそばにいて、被告人Cは「いずれ放せばだめだから。」とWを殺すことに賛成し、被告人EとXも分かったという顔をしていた。被告人Aも同Cと同じようなことを言っていた。こうしてWを殺すことが決まった後、被告人Bが「穴掘って埋めた方がいいんじゃないか。」などと言い、被告人Aが「スコップあるから。」と答えていた。以上のような供述をしている。また、被告人Bも、その検察官調書(乙五四、<45>八五二六丁表ないし八五四一丁裏)において、概ね次のような供述をしている。すなわち、七月一九日の夜は、自分が、「金取って放したらばれるべ。」などと言った後、Wを誘拐した後どうするかについていろんな意見が出たが、このときはWを殺すという結論は出なかった。翌二〇日の午前中、被告人Aが貸別荘内のピンク電話を使ってWに電話をかけ、その日の夕方Wと会えるということになった後、被告人ら及びXの全員が洋間に集まり、Wを誘拐する方法や、同人に金を出させる手段など犯行の段取りを決めた後、自分が、「金取った後どうすんのや。金取って社長を放したらばれるべ。」と言ったところ、遠いところへ連れて行ってガムテープでぐるぐる巻きにしておけば目が見えるようになるまでの間に逃げられるとか、警察にしゃべらないくらいに脅し付ければいいなどという話が出たが、被告人Fが、「証拠を残す訳にはいかねえ。消すしかねえべ。」と言った。そして、自分としても、今回の犯行だけでなく盛岡事実が発覚することを恐れて、Wを殺す以外に自分自身が助かる方法はないと思い、「んだばやるしかねえべ。社長放せばいずれしゃべる。やばいべ。消すしかねえべ。」などと皆の前で言った。それに対して反対してくる者はおらず、皆黙ってうつむいていた。そして、被告人F以外の被告人らも、「やるしかねえべな。」とか「俺だって捕まるのやだもんな。」などと口に出し、Wを殺すしかないということで全員が一致し、Wを殺すことに決まった。以上のような供述をしている。更に、Xも、その検察官調書(乙四四、<44>八三一四丁表ないし八三一六丁表)において、概ね右各供述に沿う供述をしているほか、被告人Aも、その検察官調書(乙四〇、<44>八一一〇丁表、八一四七丁裏、八一四九丁裏)において、七月二〇日昼の段階において、被告人Bと同FからWを殺すしかないという話が出て、同日の夜に殺し役をXと被告人Eにやらせることにするという話が出たなどと、同日の夜以前の段階で既にW殺害の謀議ができていたことを認める供述をし、被告人Cも、その検察官調書(乙六一、<46>八六九五丁裏ないし八六九六丁裏)において、七月二〇日の朝、Wを誘拐する方法や金を出させる方法について話し合った際、Wを殺すという話も交わされた旨供述している。加えて、被告人Dは、原審(原審二一回、<70>一八〇八丁表、一八一九丁表)及び当審(当審二五回、<85>一四二五丁裏)各公判において、Xは、原審公判(原審二一回、<70>一七七八丁表)において、被告人Cは、原審公判(原審二二回、<70>一八四五丁表ないし一八四七丁裏)において、それぞれ同旨の供述をしている(なお、同被告人の当審公判(当審二三回、<84>一二七四丁表ないし一二七七丁裏)における供述も、内容的には、前記の各供述に沿うものと解される。)。

以上の各供述、とりわけ、被告人D及び同Bの各供述は、かなり詳細かつ具体的である上、Wの誘拐が本決まりになり、その具体的な犯行計画も立てられた段階で、現金奪取後被害者をどうするかということは当然話題に出てしかるべきであり、しかも、右供述中の被告人Fの意見は極めて説得力のあるものであることや、関係各証拠を精査検討してみても、右被告人Fの意見に対し、他の被告人らがこれに反対する態度を表明した形跡は何ら窺われないことに照らしても、右一連の各供述はまことに自然なものと認められ、その信用性は高いものと認められる。

これに対し、被告人Aは、原審公判(原審二三回、<71>一九七二丁表、裏)において、Wを殺害することが確定的になったのは七月二〇日の夜である旨の供述をし、当審公判(当審二〇回、<84>一〇七五丁裏以下)においても同様の供述をするが、その一方で、同被告人は、原審公判において、W殺害をはっきり決めたのは七月二〇日の夜ではなく翌二一日の朝であるなどと、右供述と異なる供述をしている(原審二二回、<70>一九一九丁表、裏)上、原審及び当審各公判において、七月二〇日の朝の時点で、W殺害の話が出ており、その際殺さないで済む方法についていろいろ話が出たこと、被告人Fが、犯行の発覚を防ぐためには殺さなければ駄目だと提案したことを認める供述をしている(原審二二回、<70>一九五六丁裏ないし一九五七丁表)ことに照らすと、被告人Aの原審及び当審各公判における右供述が、前記原判示認定に沿う各供述の信用性に影響を及ぼすものとはいえない。

また、被告人Bは、原審公判(原審二四回、<71>二一二九丁表、裏)において、Wを殺害することを全員で確認したのは、Wを略取した後である七月二〇日夜のことであり、それ以前にはあまりそのような話はしなかったなどと供述し、当審公判(当審二一回、<84>一一九〇丁裏)では、同日午前中の段階では、W殺害の話は一切出なかったなどとも供述するが、これらの供述は、他の被告人やXの捜査段階や原審及び当審各公判の供述に照らし到底信用できない。

更に、被告人Eは、原審公判(原審二〇回、<70>)において、Wをどうするかについて話し合っていろいろな意見が出たが、生かして帰すという方向で話は終わったと思う(一七一一丁)、W殺害について一切議論はなかった(一七一六丁)、あるいは、二一日の朝、被告人Bから殺害役を命じられるまで、Wを殺害することに決まったことは知らず、その際、被告人Bに対し、「なんで殺すのか。帰すんじゃないのか。」と言った(一七二四丁表、裏)などと供述し、当審公判(当審二六回、<85>一五五二丁表)でも、Wの殺害を聞いたのは、被告人Bから殺害役を聞いた時が初めてであり、それまでは帰すものだと思っていたなどと供述している。しかし、その一方で、被告人Eは、原審公判において、Wを誘拐した後解放するか殺害するかについていろいろな話が何回か出て、そのとき、万が一の場合は、殺すこともやむを得ないと考えたとも供述しており(原審二〇回、<70>一六五七丁裏ないし一六五八丁表)、また、当審公判では、七月一九日の段階で、Wを山中に置いてくれば分からなくて済むんではないかという話が出たなどと、早い段階からWの処分について話が及んでいたことを窺わせる供述をしている上、Wの目をつぶして帰す、同人に対しいつも見張っているなどと言ってとことん脅すなどという話が出たが、被告人Fから、顔を見られているから生かしては駄目なんだという話が出て、結局は、Wを生かして帰せないという結論になった(当審二六回、<85>一五四三丁表以下)などと、むしろ原判示認定に沿う供述をしている(なお、被告人Eは、W誘拐後の七月二〇日の夜に右のような話が出た旨供述しているが、関係各証拠によれば、その際の話し合いに被告人Eは参加していなかったと認められるから、同被告人がそのような話を聞いたのは、同日の午前中であった可能性が高い。)のみならず、同被告人は、Wを誘拐する前に場合によっては殺すという話が出ており、自分としては被告人Bあたりがやると思っていたが、そのときはまだ話の段階という感じであったので、被害者を殺害することについて、それほど深くは考えなかった(原審二〇回、<70>一六七二丁表、裏)、被告人Bから殺害役を命じられる前、被告人Bから穴を掘ってきたことを聞いたが、その時はあまり切羽詰まったような状況は感じられなかった(同一七二七丁表、裏)などと被告人Eの一連の供述に照らしてみると不自然と思われる供述をしている。以上のとおり、W殺害の認識の点に関する被告人Eの原審及び当審における各供述は、一貫性に乏しく不自然な点もみられるのであって、これに信用性を認めることは困難である。

以上の次第であり、被告人Bが、Wの殺害を強く主張して反対論を押し切ったとの点を含め、七月二〇日の朝の時点でW殺害までの全犯行に関する共謀が遂げられたとの原判決の認定に誤りはないから、<2>の所論は採用の限りではなく、被告人A、同C及び同Eの各主張も採用できない。

(3) 次に、<3>の所論についてみると、この点につき、被告人Eは検察官調書(乙八一、<47>九一九三丁表)並びに原審(原審二〇回、<70>一六六二丁、一六六五丁表)及び当審(当審二六回、<85>一五三四丁表ないし一五三五丁表)各公判において、また、Xも検察官調書(乙四五、<45>八三五六丁表、裏)及び原審公判(原審二一回、<70>一七四五丁ないし一七五二丁裏)において、その供述内容は若干異なるとはいえ、Wが殺害された前日の夜もしくは当日の朝の時点で、貸別荘内において被告人Bから殺害役を命じられた旨明確に供述しており、また、被告人Bもその検察官調書(乙五五、<45>八五七五丁裏)中で被告人EやXの右各供述に沿う供述をしているところ、これらの供述内容や関係各証拠を検討してみても、所論のいうように、被告人Bが、被告人Fから命じられるまま、被告人EとXに対し殺害役に決まったことを単に告げただけであるとは到底認められず、この点につき原判決に事実の誤認はなく、<3>の所論は採用できない。

(4) 更に、<4>の点についても、被告人E(乙八三、<47>九二一九丁表ないし九二二二丁表)及びX(乙四五、<45>八三八八丁裏ないし八三九三丁表)は、その各検察官調書において、被告人Bが、Wの殺害現場において、被告人EとXに対し、顎をしゃくる仕草をして殺害の合図を送り、その最中にWの腹部等を殴打してから再度の絞頚を命じて止めを刺したとの原判示認定事実に沿う事実を、明確かつ具体的に供述しており、被告人E(原審二〇回、<70>一六七八丁表以下)とXは(原審二一回、<70>一七五五丁、一七五八丁裏)、原審公判においても同旨の供述をしているところ、これらの供述が、所論のいうように、被告人EとXの錯覚か言い訳であるとは到底思われない上、被告人Bもその検察官調書(乙五六、<45>八六〇八丁裏ないし八六一三丁表)中で、被告人EやXの右各供述に符合する供述をしていることからすると、この点についても原判決に事実の誤認はなく、<4>の所論も採用できない。

(5) なお、所論は、被告人Bは、本件犯行において、盛岡事件同様被告人Fに命じられるまま行動したに過ぎない旨主張し、これに沿う被告人Bの原審及び当審公判における供述の信用性を強調するので、若干検討すると、同被告人は、原審(原審二三回、二四回、三一回)及び当審(当審二一回ないし二四回、三一回)各公判において、概ね次のような供述をしている。すなわち、自分は、平成元年七月一〇日ころ、被告人Cの訪問を受け、福島に悪いことをして金を貯めた社長がいて、それを脅かせばすぐに何億にもなるという儲け話を聞かされたが、自分としては、そんな夢みたいな話があるはずはないと思い、取り合わなかったところ、同月一九日の昼ころ、再び被告人Cがやって来て、この前話した儲け話の件で一緒に郡山に行こうと誘われた。自分はその時、そんな話はうそだと思ったが、いつも家にばかりいるので、たまにはドライブするのもいいと思い、被告人Cから聞いた話の限りでは、せいぜい悪いことをしているやくざ者をいじめて金を取るくらいの軽い気持ちで、被告人Cらと一緒に車で郡山に赴いた。郡山で被告人A、同FやXと合流し、いろいろ話をしているうちに、社長のほかに女を一緒にいじめるという話が出てきたので、何か様子が変だと感じ、帰るということを言い出したが、被告人Fから、部屋を借りていて経費もかかっていると言われたことや、被告人Aから部屋に行って休もうと誘われたこと、更に、当時盛岡から乗ってきた車は自分のものではなく、所持金が五〇〇〇円余りしかなかったことから、帰ることができず皆に付いて貸別荘に行った。貸別荘では、他の被告人らが、Yをやるやらないなどと暫く話していたが、自分は、帰りたかったので、「他に誰もいないだろう。」などと言ったところ、被告人Fが、被告人Aに向かい、「地元だから誰か知っているだろう。」などと申し向けたところ、被告人Aが、数人の名前を挙げ、その最後にWの名前を挙げた。そして、翌二〇日の午前中、被告人Fが中心となって、Wを誘拐して金を奪う段取りについて話し合いがなされたが、その時自分はただ聞いていただけだった。Wを誘拐して貸別荘に連れてきた後、被告人Aが刀をWに示して脅していた以外は、専ら被告人FがWを脅迫しており、他の者は誰も口を挟まなかった。その後、被告人FがWと話をして、二〇〇〇万円位取れるということになった段階で、被告人Fから、金を取ったらWを返すわけにはいかないというW殺害の話が出て、他の被告人らから、Wを殺さないで済ます方法について様々な意見が出たが、最終的に被告人Fの意見に押し切られて、Wを殺害することになった。そして、被告人Eを除く六人の話し合いの中で、被告人Fが言い出して、被告人EとXに殺し役をやらせることとし、自分と被告人Aも殺し役をすることになり、その後、被告人Fに命令されて、自分が被告人Eに殺し役に決まったことを伝えた。自分としては殺し役に決められた以上、自らの手でWを殺すつもりでおり、被告人Fからひもを渡されてポケットに入れていたところ、殺害現場において、先頭にいた被告人Aが振り向いた瞬間、先に、Xが後ろからWにひもをかけ、これを被告人Eと一緒に引いてWを殺害してしまった。自分が、Xや被告人Eに殺害の合図を送ったことはない。Wはぐったりとなり、Xと被告人Eが手に持っていたひもを離したところ、Wの身体が自分の方に倒れかかってきて、自分も一緒に地面に倒れてしまった。その時、誰かの「突っついてみろ。」というような声が聞こえたので、自分は、左手でWの腹を突っついた。Wの鼻から鼻汁が出ていたので、それが自分に付かないようWの鼻を押さえたかも知れない。その後、Xと被告人Eが、またWの首を絞めた。概ね以上のような供述をしている。

しかしながら、被告人Bの右一連の供述からすると、同被告人は、帰りたいのに帰ることもできず、終始被告人Fに命じられるままこれに付き従って行動したということになるが、本件犯行直後、分け前を受け取り成功を祝って共犯者全員で祝盃を上げたという行動ひとつとってみても、被告人Bがそのような消極的な態度に終始したとは到底思われないのみならず、しかも、右一連の供述内容は、被告人Bの捜査段階における供述と余りにかけ離れている上、他の被告人ら及びXの捜査段階や原審及び当審各公判における供述をみても、被告人Bの右供述に沿う供述をしている者はいないのであって、被告人Bの右供述を裏付ける証拠は格別存在しないことに照らしても、被告人Bの原審及び当審各公判における右供述は到底信用することができない。

これに対し、所論は、盛岡事件におけると同様、被告人Bの言語表現能力の乏しさなどの能力の問題などを指摘して、被告人Bの原審及び当審における各公判供述の信用性を強調するが、以上説示したところに照らして、所論は採用の限りではない。

(四) その他、縷々主張する所論に鑑み、原審及び当審で取り調べた関係各証拠を精査検討してみても、原判決に、所論指摘のような事実の誤認は存しないから、被告人Bの事実誤認の論旨は理由がない。

2  被告人Fの所論について

(一) 被告人Fの所論は、次のようなものである。すなわち、平成元年七月一九日の夜から翌二〇日朝にかけて行われた謀議では、誘拐の対象者をWにするということについて打合せがなされたのみであり、Wを誘拐する手順、金員を得る方法などについて全く打合せがなされておらず、その時点における謀議の内容は、漠然とした営利目的の誘拐にとどまっていた。また、W誘拐後の謀議においても、被告人Fは、Wを確定的に殺害するものではなく、現金の受け渡しがうまくいった場合には、同人が解放されるものと認識していた。更に、W誘拐役になされた七月二〇日の夜の謀議においても、金員を獲得する方法、その手順、殺害方法等については全く打ち合わせがなされておらず、場当たり的な形で犯行が推移していった。以上のような経緯の中で、被告人Fは、本件犯行において主導的役割を果たしておらず、他の被告人らに追随して犯行に加わったに過ぎない。したがって、原判決が、右主張に反する事実を認定し、被告人Fが、本件犯行において主導的な役割を果たした旨認定判示しているのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認である、というのである。

そして、所論は、具体的な主張として、被告人Fは、本件犯行当時金に困ってはおらず、本件犯行に参加したのは、被告人Bからの誘いに応じ、盛岡事件の発覚をおそれ断り切れなかったというものであり、被告人Fには、本件犯行の動機として経済目的はなかったこと、したがって、被告人Fとしては、犯行が遂行されないことが望ましく、Yを誘拐する計画の杜撰さを知るや、その旨を指摘してこれを止めさせようとしたのであって、原判決が認定しているように、被告人Fが、監禁場所として貸別荘がないかと尋ねたり、その予約をすることはあり得ないこと、被告人Fが貸別荘を借りる手続を行ったのは、当時同被告人が背広を着用していたためであり、別荘を借りた目的は単なる宿泊であったこと、原判決が認定しているように、被告人Bや同Cが口々に計画の杜撰さを非難して、再び計画からの離脱をほのめかしたところ、「このままじゃ帰れないだろう。経費もかかっているから。」と押し止めたということはあり得ないこと、被告人Fは、犯行に参入してからも、何とかして犯行を思い止まらせようと思い、急きょ新たな者を対象者とすることには無理があると反対したが、被告人Cから、「F、また反対か。」などといわれ、その場の雰囲気から反対し続けることができず、成り行きに任せざるを得なくなったこと、被告人Fは、Wを呼び出すのに相応しいところを助言するなどということはしておらず、まして、W殺害の提案などしていないこと、誘拐を行おうとする者が、誘拐の直前になってその対象者を決めるということは理解し難いことであり、被告人Fが主導権を握り、犯行を指導したというのならば、このような杜撰な計画のもとに犯行に及ぶことは考えられず、この点、原判決は、被告人Fの元警察官であるという経歴にとらわれて、たった一日で誘拐事件の綿密な計画を立てたという非合理的な判断をしていること、被告人Fは、杜撰な計画ではそもそもWを誘い出すことは失敗するだろうと考え、成り行きに任せていたところ、予想に反して、Wの誘拐に成功してしまったものであること、被告人Fは、Wが誘拐された後、金銭の受渡しがうまく行けば、Wを解放できるのではないかと考え、自ら積極的に金銭の工面とその受渡し方法を考慮し、Wが提案してきた金銭の受渡しがうまく行くことを期待し、実行させたこと、その後、Wが殺害されるに至ったが、被告人Fは、Wがいつ、どこで、誰に殺されたか知らなかったし、死体がどうなったかも知らなかったこと、原判決は、被告人Fが、Wにガムテープで目隠しをしたり、Wに対し、「あんたを殺すのを頼まれた。身に覚えがないか。」「社長が金を出すのなら、助けてやってもいい。」などの脅迫を加えた旨判示しているが、同被告人にはそのような事実はないことなど、その主張は多岐にわたっている。

(二) しかしながら、原判決挙示の関係各証拠を総合すると、原判決が、「主張に対する判断と補足説明」の項の第二の一(共謀の内容及び成立時期)及び二(被告人Fのその余の主張等について)(原判決一八四頁ないし一九六頁)で、所論指摘の点を含め適切に説示しているとおり、所論が事実誤認であると主張する原判決の認定事実は、いずれも合理的な疑いを超えて十分これを肯認することができるのであって、当審における事実取調べの結果を併せて検討してみても、原判決に所論指摘の事実の誤認があるとは認められない。

若干付言すると、被告人Fは、その各検察官調書(乙一七二ないし一八〇)や原審及び当審各公判において、右所論に沿う詳細な供述(以下、これらをまとめて「被告人Fの郡山事件供述」という。)をしているところ、所論は、本件犯行に関する被告人F以外の他の被告人らの捜査段階や原審及び当審各公判における供述には不自然な点が多数あるとして、その信用性に疑問を呈する一方、被告人Fの郡山事件供述には信用性が認められるとしている。

しかしながら、他の被告人らやXの捜査段階並びに原審及び当審各公判における本件犯行に関する供述をみてみると、先にみたとおり、本件犯行について謀議が確定した時期や、各人が果たした役割、発言内容等について、その供述に食い違いがみられるものの、基本的な事件の経過については概ね符合する供述をしているところ、その供述内容は、事件の流れとして自然なものと認められる上、盛岡事件において述べたように、被告人Fが逮捕される前の段階において、他の被告人らやXが捜査段階において、被告人Fに責任を転嫁させるべく口裏を合わせて虚偽の供述をしたとか、これらの者を取り調べた捜査官が殊更事実を歪曲して供述調書を作成したなどという可能性は全くないと考えられることに照らすと、郡山事件の基本的な事実経過に関する被告人F以外の被告人らやXの供述は、信用できるものと認められる(ちなみに、所論は、他の被告人らやXの供述の不自然な点を具体的に指摘していない。)。

これに対し、被告人Fの郡山事件供述は、それ自体明らかに不自然といわざるを得ない点が多々存在している上、盛岡事件に関する被告人Fの供述同様、その供述を子細に検討してみると、事件の流れこそ捜査段階から原審及び当審各公判を通してその供述に大きな食い違いは見られないとはいえ、捜査段階から原審及び当審各公判を通じ、供述全般にわたり相互に矛盾する供述がみられるのであって、以上に照らし、被告人Fの供述は、その全体について信用性に重大な疑問があるといわざるを得ないのである。

なお、所論は、原判決は、被告人Fが緻密な計画を立案したというが、具体的な緻密な計画の内容を判示していないし、それを示す証拠はないなどと主張するけれども、原判決が認定判示している本件犯行それ自体、緻密な計画のもとに遂行されたものであると十分評価することができるのであって、所論は採用の限りではない。

(三) その他、縷々主張する所論に鑑み、原審及び当審で取り調べた関係各証拠を精査検討してみても、原判決に、所論指摘のような事実の誤認は何ら存しないから、被告人Fの事実誤認の論旨は理由がない。

第三  被告人Fの控訴趣意中、法令適用の誤りの主張について

論旨は、要するに、原判決は、被告人Fに対し、刑法二四〇条後段を適用して死刑を言い渡したが、死刑を定めた右条項は、残虐な刑罰を禁止する憲法三六条に違反するのみならず、刑法一一条が規定する絞首刑による死刑の執行方法も、それ自体が残虐であるから、その意味でも憲法三六条に違反するものであり、以上のとおり、原判決が、憲法の規定に違反する刑法二四〇条後段の規定を適用して、被告人Fを死刑に処したのは、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りである、というのである。

しかしながら、死刑が残虐な刑罰を禁止した憲法三六条に違反するものでないことは、最高裁判所の判例(昭和二二年(れ)第一一九号同二三年三月一二日大法廷判決・刑集二巻三号一九一頁等)が繰り返し述べるところであり、また、現在わが国の採用している絞首刑(刑法一一条)が憲法三六条にいう「残虐な刑罰」に当たらないことも、最高裁判所の判例(昭和二六年(れ)第二五一八号同三〇年四月六日大法廷判決・刑集九巻四号六六三頁等)の趣旨とするところであって、当裁判所としても、所論が縷々指摘する諸点を考慮してみても、死刑制度及びその執行方法としての絞首刑は残虐な刑罰に当たらないものと考える。

若干付言するに、死刑廃止国の増加傾向など、死刑制度を取り巻く状況が徐々に変化して来ていることは、所論指摘のとおりであり、また、最近の裁判実務をみても、全体的に死刑の適用についてかなり慎重な姿勢を示す傾向がみられるところであるが、わが国の犯罪の実情や死刑制度に対する国民一般の意識等を考慮すると、もとより、死刑が人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な窮極の刑罰であることに鑑みると、その適用については、慎重の上にも慎重を期することは当然であるとはいえ、憲法は、未だ死刑制度を否定するものではないというべきである。

したがって、原判決に所論指摘の法令適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

第四  量刑不当の各控訴趣意について

一  被告人A、同B及び同Fの論旨は、いずれも要するに、同被告人らを死刑に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であるというもの、被告人Eの論旨は、要するに、同被告人を無期懲役に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であるというもの、被告人C及び同Dに対する検察官の各論旨は、いずれも要するに、同被告人両名を無期懲役に処した原判決の量刑は軽きに失して不当であり、いずれも死刑に処するのが相当であるというものである。

そこで、以下各論旨について順次判断を示すこととする。

二  本件各事件の全般的な犯情について

本件各事件の全般的な犯情は、概ね、原判決が「量刑の理由」の項の二(盛岡事件)、三(郡山事件)及び四(千葉事件)で説示しているとおりであると認められるが、事案の重大性に鑑み、改めて考察することとする。

1  盛岡事件について

記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討すると、本件は、被告人A、同B、同C、同D及び同Fの五名が、共謀の上、金融業を営むG(当時四一歳)を誘拐して、同人から金品を強取するとともに、犯行の発覚を防ぐため同人を殺害しようと企て、営利の目的をもって、昭和六一年七月一五日ころ、被告人Bが、Gに電話をかけ、不動産の見積もりをして欲しいなどとうその事実を告げて、同人を岩手県稗貫郡石鳥谷町所在の空き家まで連れて行き、同家屋の検分名下に家屋内に立ち入らせて連れ込み、そのころから、同日午後七時ころ、Gを改造ワゴン車に乗せて、同人を同県紫波郡紫波町所在のモーテル「ホテル甲野荘」まで連行して同所一二号棟に連れ込むまでの間、Gを被告人らの支配下に置き、営利目的で同人を誘拐し(原判示盛岡事件第一の事実)、前記空き家内において、被告人Aが、Gの頚部に短刀を突き付け、椅子に座らせた上、被告人Bが、Gの上半身を椅子の背もたれに、被告人Cが、その両手足を椅子の脚にそれぞれひもで緊縛し、被告人Dが、ガムテープをその両目に貼り付けて目隠しをし、被告人Aが、その頭部を手拳で一回殴打するなどの、暴行、脅迫を加えてGの反抗を抑圧し、その場で同人の所持するキャッシュカード二枚、アパートの部屋の鍵等を強取し、Gから、書類等の在処や暗証番号を聞き出すと、被告人F及び同Cが、盛岡市向中野所在の丙山荘二〇一号のG方アパートに赴き、同室内から、G所有の原判示N子所有名義にかかる土地登記済権利証一通、黒色わに皮製二つ折り財布一個(時価三七万五〇〇〇円相当)等を強取し、次いで、翌一六日午前三時ころ、Gを殺害する目的で、前記モーテルから同人を改造ワゴン車に乗せて岩手県岩手郡雫石町所在の小岩井農場まで連行し、Gを同農場内の古井戸に投棄して殺害するとの当初の計画に従い、同農場内に点在する井戸を見て回ったものの、適当な井戸を発見することができなかったことから、その殺害方法を穴を掘って生き埋めにすることに変更し(なお、誰が最初に提案したかは必ずしも明らかでない。)、同町大字長山第五〇地割字椛沢四八番二付近の小岩井農牧株式会社小岩井農場管理の山林内に穴を掘り、Gをその穴に転落させ、その上から土をかぶせて踏み固めるなどして同人を生き埋めにし、埋没させて殺害し、そのころ、被告人B宅前の空き地に駐車してあったG所有にかかるBMW車一台(時価約二一五万円相当)を強取した(同第二の事実)、というものである。

その犯行態様は、原判示のとおり、犯行前日に予め被告人五名が被告人B宅に集まって、被告人Fが中心となって犯行計画の謀議を行い、Gを誘拐して脅す場所や手順などを決め、更に、同被告人の提案により、犯行の発覚を防ぐためGを小岩井農場の古井戸に投棄するなどして殺害することを決するなど、犯行全体について用意周到に打ち合わせ、引き続き、Gを誘拐する空き家の下見をした上、本件犯行当日、言葉巧みにGを空き家までおびき出し、その身柄を拘束して誘拐し、所持していたキャッシュカードや同人のアパートの部屋の鍵などを強取した後、右強取した鍵を用いて、G方から、土地の権利証などを奪い取ったのみならず、同人所有の外国製自動車を強取した上、これを中古車の販売業者に売却して、その代金から被告人らが各々約二五万円を手にしたほか、本件犯行後には、Gから奪い取った書類をもとに、Gの貸付先を訪ね歩いて債権の取り立てを試みてもいることが認められ、計画的な犯行であることは言うに及ばず、被告人らの金品強取の犯意が極めて強固であったことも明らかである。また、G殺害の状況をみると、被告人Aが、ガムテープで目隠しされ、両手をひもで緊縛されたGを改造ワゴン車から降ろし、被告人Cとともにその両脇を支えながら、スコップで掘った穴のそばまで連行してその端に立たせた上、被告人Aが短刀でGの着衣を切り裂いて剥ぎ取り、被告人Dがその靴と靴下を脱がせるなどして、同人を下着姿にし、被告人Fが同人の両足首をひもで緊縛すると、被告人Bが、穴を背後にして跪ぐような格好になったGの胸部を足蹴にして、同人を穴に転落させ、被告人D及び同Fらが各々スコップを手にして掘り出した土を穴に投げ入れていたところ、Gが土中から上半身を起こしたことから、被告人Dが、その顔面をスコップで数回殴打して同人を昏倒させ、右被告人らが、その上から更に土をかぶせて踏み固めるなどし、同人を土中に生き埋めにして殺害したというもので、その犯行態様は残忍の一語に尽き、冷酷にして非情というほかはない。

更に、犯行の動機をみても、前述したとおり、被告人Fにおいては、Gに対し多額の借財を負担し、同人からその返済を迫られていたことから、同人を殺害することにより一挙に債務を免れようとの意図をも有していたことが認められるが、いずれにせよ、本件は、被告人ら全員が、金欲しさ等の私利私欲から及んだ犯行であって、被告人らいずれについても、その動機に酌量すべき事情など一切存しないことはいうまでもない。なお、被告人Bは、当審公判(当審一一回、<82>五三七丁以下)において、被告人Fが、更に別の動機、すなわち、被告人FとGが、Sを飛び降り自殺に見せかけて殺害した事件に関わっていたことから、そのことを隠蔽するためGを殺害したものであることを窺わせる供述をしているが、そのような疑いを生じさせる証拠は何ら存しないばかりか、被告人Bは、捜査段階や原審公判においては、そのような供述は一切していない(捜査段階や原審公判で供述しなかった理由についての同被告人の供述(当審一二回、<83>五四四丁裏以下)は、不自然で信用性に乏しいといわざるを得ない。)ことに照らしても、被告人Bの右供述は信用できない。

そして、本件の結果が重大かつ悲惨であることは言うをまたない。すなわち、被害者のGは、本件当時四一歳の働き盛りであったもので、確かに、仕事の面では必ずしも順調であったとは言い難く、被告人らと一緒に盛岡市内のタクシー会社から金員を恐喝しようとしたり、自己の債権の取立てを複数の者に依頼して被告人らの反感を買うなど、その行動に全く問題がなかったとはいえないが、さりとて、G自身が空き家で誘拐された当初被告人Bらに対し申し向けているとおり(乙八、<41>七二四三丁表)、被告人らから本件のような仕打ちを受けるいわれなど全くなかったのであって、当時、胃癌の手術を受けて自宅療養中の母や、大学入試の検定試験を目指していた長男、これらの者の世話をしていた内妻を残し、思いもかけず人生を半ばにして終えざるを得なかったGの無念さは筆舌に尽くし難いものがあると認められる。しかも、被告人らは、犯行の途中でGに対し詐言を弄し、他から依頼を受けてやむを得ずこのような行動をとっているように思わせて同人を安心させたことから、Gは、穴に生き埋めにさせられる直前まで殺害されるとは思っていなかったことが窺われ、途中で逃げ出す手だてを講じることもなく、かえって、被告人らの詐言を信じ自ら縛ってくれなどと申し出て(乙三四、<43>七九二五丁以下)落命することになった情況は、哀れというほかはない。Gの死体は、本件犯行から約五年を経てようやく発見されるに至ったものであるが、白骨化した死体の惨状は目を覆うばかりである。また、原判決が説示しているとおり、本件がGの家族に与えた影響も甚大である。すなわち、Gの家族は本件によりその経済的基盤を失ったばかりか、当時はGが被告人らに殺害されたとは露知らず、前記のとおり、被告人Fの偽装工作を信じた内妻が、Gに愛想を尽かし、同人の母親と長男の世話を放棄して仙台市の自宅を立ち去ったことから、自宅のローンの返済が滞って競売により自宅を失い、母親と長男は慣れない借家住まいを余儀なくされ、病気療養中の母親は、息子の失踪や急激な生活環境の変化などの心労が重なって本件から数年後に他界したのであり、また、長男は、大学進学の夢を断たれてその将来を大きく狂わされたのである。Gの長男は、捜査段階や原審公判(原審二九回、<72>二三八二丁以下)において、本件後の生活の苦しさや父親を殺害された無念さを供述しているが、検察官からの最後の質問に、言葉少なに被告人らを極刑に処して欲しい旨述べるその心情は十分理解することができる。

以上のとおり、盛岡事件は、その罪質、犯行の動機、態様、結果、更には遺族の被害感情等のいずれをとってみても、その犯情は最悪というほかはない。

2  郡山事件について

記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討すると、本件は、被告人A、同B、同C、同D、同E及び同FがXと共謀の上、福島県郡山市内で塗装会社(乙野塗装)等を営むW(当時四八歳)を誘拐して、同人から金品を強取した上、犯行の発覚を防ぐため同人を殺害してその死体を土中に埋めることを企て、営利の目的をもって、平成元年七月二〇日の午前中、被告人Aが、同県耶麻郡猪苗代町所在の貸別荘内から、乙野塗装の事務所に電話をかけ、応対に出たWに対し、大手建設会社の社員になりすまし、仕事のことで会いたいなどとうそを言って面会を申し込み、同日の夕方同事務所で会うとの約束を取り付けるや、被告人ら全員で原判示多摩車及び同岩手車の乗用車二台に分乗して貸別荘を出発し、途中で被告人Aが、Wに電話をして、かねての打合せの通り、郡山市大町二丁目所在のレストラン「すかいらーく郡山北店」(以下「すかいらーく」という。)にWを呼び出すことに成功し、被告人らが同店駐車場に駐車した右車両二台に乗って待機していたところ、同日午後七時ころ、Wが普通乗用自動車(以下「W車」という。)で「すかいらーく」にやって来て、右駐車場に停車したことから、大手建設会社の社員を装った被告人Aと同Cが、Wに対し言葉巧みに多摩車に乗るように勧め、右被告人両名が両脇から挟むようにしてWを同車の後部座席に乗せた後、それまで姿を隠していた被告人Bが同車の助手席に乗り込むと、被告人Eの運転で直ちに発進し、その後に、被告人Dが運転し被告人F及びXが同乗する岩手車が続いて、Wを「すかいらーく」駐車場から貸別荘まで連行した上、同日午後八時ころ、貸別荘内に同人を連れ込み、同人を被告人ら全員及びXの支配下に置いて誘拐し(原判示郡山事件第一の事実)、同日午後八時ころから翌二一日午後一時二〇分ころまでの間、貸別荘において、連れ込んだWを同別荘内の洋間に座らせた上、被告人Fがその両手に手錠をかけ、ガムテープで目隠しをするなどしたほか、被告人全員及びXにおいて、交互に監視を続けるなどして貸別荘内から脱出することを不能にして、Wを不法に監禁し(同第二の事実)、右のとおりWを貸別荘内に監禁した同月二〇日午後八時ころから翌二一日午前九時ころまでの間、同所において、Wに対し、前記のとおり被告人Fがその両手に手錠をかけ、ガムテープで目隠しをするなどしたほか、被告人Aが模造の居合刀をWの頚部に押し付け、被告人Fが、「あんたを殺すのを頼まれた。身に覚えがないか。」「社長が金を出すのなら、助けてやってもいい。」などと申し向けるなど、暴行、脅迫を加えてWの反抗を抑圧した上、同人をして貸別荘内から乙野塗装の従業員に電話をかけさせて、同会社の取引銀行数社に現金合計一七〇〇万円の金策を依頼させる一方で、被告人F、同C及び同Dが岩手車で「すかいらーく」に赴き、原判示のとおり、貸別荘に残った被告人Cらの指示で、W自身に電話をかけさせて、乙野塗装の従業員をして、用意した現金一七〇〇万円を「すかいらーく」の駐車場に止めたW車の助手席に置いて先に帰るよう仕向け、被告人FがW車に乗り込みこれを発進させて同所を離れ、右一七〇〇万円を強取し、間もなく同被告人から現金強奪が成功した旨の電話を受けた被告人A、同B、同E及びXが、Wを多摩車に乗せて貸別荘から連れ出し、その両手首に手錠をかけた上、福島県耶麻郡猪苗代町字芹沢四〇八五番六四地付近に到着すると、更にWの目と口にガムテープを巻き付け、同所において、Xが所携のプラスチック製ひもをWの頚部に巻き付けてその一端を被告人Eに手渡し、それぞれひもの両端を引っ張って、その頚部を絞め付けるなどし、そのころ同所においてWを絞頚により窒息死させて殺害し(同第三の事実)、Wを殺害した直後、被告人A、同B、同E及びXが、その死体を、同日朝のうちに被告人C、同D及び同Aが予め掘っていた穴に投棄した上、その上から土をかけて土中に埋め、Wの死体を遺棄した(同第四の事実)というものである。

本件は、当初、被告人Aが、郡山市内で建設業を営む会社社長(Y)を誘拐して大金を奪おうと目論み、Xを仲間に誘い込んだ後、被告人Cらにも声をかけ、最終的に本件犯行の共犯者である被告人六名及びXが、右犯行を行うべく郡山市内に結集し、右社長宅前で同人を待ちかまえて犯行に及ぼうとしたものの、これがうまくいかなかったことから、急きょその標的を本件の被害者であるWに変えた上、金員奪取の目的を成し遂げたというものであって、後述する本件犯行直後における被告人らの行動をみても、その金銭に対する欲望の深さには驚くべきものがある。また、その犯行の経緯をみると、Wを誘拐することに決すると、直ちに、被告人Fが中心となって、被告人ら及びXの全員でWを誘拐する手段について謀議し、大手建設会社の名をかたって仕事の依頼を口実にWを呼び出すこと、同人を呼び出す場所については、人の出入りの多い方がかえって目立たないということで、「すかいらーく」にすることなどを決め、更に、その翌朝、Wを誘い出せる目処が立つや、Wを誘拐する際の被告人らの役割や使用する車両、Wを脅す方法、更には、W自身に電話をさせて銀行から会社に現金を届けさせ、これを従業員に「すかいらーく」に運ばせるという現金の受取り方法などを決め、最後に、現金強奪後にはWを殺害することについても謀議を遂げた上、その日のうちに右計画通り犯行を実行に移してWを誘拐し、直ちに、現金の受取役とWの殺害役を決めた上、その翌日計画通りことを進めて現金強奪に成功するや、予定の行動としてWを殺害してその死体を穴に埋めて遺棄したというのであり、全体として極めて緻密な計画のもとに敢行された犯行であることはもとより、金員強取に至るまでの犯行態様は、まことに巧妙かつ大胆なものである上、計画通りに共犯者七名がそれぞれ役割をこなし、ほぼ完璧なまでに犯行が遂行されているのであって、このことは、被告人ら及びXの共謀がいかに強固であったかを如実に物語っているというべきである。そして、W殺害の状況をみると、被告人Fから、現金強奪に成功したとの電話連絡を受けた殺害役の被告人A、同B、同E及びXの四名は、Wに対し、解放してやるなどと騙して貸別荘から連れ出し、車中において、同人の両手に手錠をかけ、目にガムテープを貼り付け、更に口にもガムテープを二重に貼り付けた上、殺害現場に到着すると、被告人EとXがWの両脇を抱えて同人を穴付近まで連行し、被告人Bが顎をしゃくって合図をするや、Xが所携のプラスチック製ひもをWの頚部に巻き付けてその一端を被告人Eに手渡し、それぞれひもの両端を引っ張ってその首を絞め付け、被告人Bが苦痛に喘ぐWの腹部等を足蹴にし、同人がその場に倒れるや、被告人Bの指示で被告人E及びXが再びひもをWの首に巻き付けて力一杯引っ張り、Wを絶命させ、引き続き、同人の両手首を後ろ手に縛ってその死体を穴に放り込み、その上から土をかけて土中に埋めたというのであって、その態様は、余りにも酷いもので残虐非道の一語に尽きる。しかも、本件犯行後、被告人らは、強奪した現金を分配して各々約二四〇万円の現金を手にするや、犯行の成功を祝って祝盃を上げ、被告人らの一部はその後盛岡市内に女遊びなどの遊興に出向いているのであって、原判決が説示しているとおり、被告人らはいずれも、およそ現金を強奪して人命を奪うという大罪を犯した後悔の念など、微塵も窺われない所業に出ているのである。

本件の被害者となったWは、高校卒業と同時に父親の経営する乙野塗装に入社して仕事に打ち込み、昭和五七年には死亡した父親の後を継いで同会社等の代表取締役に就任し、堅実な経営で着実に業績を伸ばして郡山市内有数の塗装業者にまで社業を発展させ、また、私生活の面では、昭和四四年に婚姻した妻との間に二人の娘をもうけ、母親とも同居して幸せな生活を送っていたものであり、その温厚で篤実な人柄は誰からも好感をもって迎えられていたのである。しかるに、Wは、被告人らと一面識もなかったにもかかわらず、前記のとおり、たまたま被告人AがWの名前を口にして被告人らの標的にされたことから、突如このようなかたちで人生の終焉を迎えざるを得なくなったのであり、その無念さはいかばかりかと察せられる。しかも、Wは、本件犯行の際、全くいわれのない暴行や脅迫を受けた上、長時間にわたり監禁され、命を助けてやるという言葉を信じて、会社や家族のために被告人らの要求を受け入れ、従業員に指示して現金を提供したにもかかわらず、解放するとの言葉に安堵したのも束の間、右のとおり余りにも残虐な方法で一命を落とすに至ったのであり、この間のWの恐怖や苦痛も、筆舌に尽くし難いものがあると認められる。更に、家族と会社の大黒柱であったWが突然行方不明になった影響は大きく、直ちに会社の運営に支障を来して、それまで専業主婦であったWの妻Z子が、Wに代わって乙野塗装の代表取締役に就任して経営を手掛けることとなり、世間の誹謗や中傷に耐えながら苦労に苦労を重ねて何とかその経営を維持するとともに、二人の娘を育て上げたのであって、このような苦難の日々を送った同女が、原審公判において、遺族を代表して、本件犯行に関わった被告人ら全員に対し、極刑を望む旨述べているその心情は、無理からぬものがあると認められる。

したがって、以上の諸事情に照らすと、郡山事件についても、盛岡事件と同様、その罪質、犯行の動機、態様、結果、更には遺族の被害感情等いずれをとってみても、その犯情は最悪というほかはないのである。

3  千葉事件について

記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討すると、本件は、被告人Aが、X及びA1と共謀の上、丁川塗装の名称で塗装業を営むB1(当時五三歳)を略取して、その身柄を監禁し、同人の安否を憂慮する同人の妻C1子から、その憂慮に乗じてみのしろ金を交付させようと企て、平成三年五月一日の夕方、A1が、東京都内から千葉県市原市所在のB1方に電話をかけ、偽名を使って仕事を頼みたいなどとうそを言って面会の承諾を取り付けるや、被告人A、X及びA1の三名で、予め用意した玩具のけん銃や手錠等を、当時Xが使用していた前記多摩車に積み込んで市原市に向かい、同日午後七時過ぎ、同市青柳所在の同市立千種中学校正門前に到着すると、A1が付近の公衆電話からB1に電話をして同所に呼び出し、同日午後七時五〇分ころ、B1が普通乗用自動車(以下「B1車」という。)で乗り付けると、A1が言葉巧みに多摩車に乗るように勧め、B1が同車後部座席を覗き込んだところを、A1において、その背後から突き飛ばすようにしてB1を同車内に押し込み、その直後、XとA1が原判示の暴行、脅迫を加えて、B1を抗拒不能にさせ、それまで身を隠していた被告人Aが頃合いを見計らって姿を現し多摩車の助手席に乗り込むと、Xの運転で、予め予約していた栃木県那須郡那須町所在の貸別荘「戊原」に向かって出発して、B1を自己らの支配下に置き、以下のとおり、同人の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてみのしろ金を交付させる目的で、同人を略取した上、原判示のとおり、極度に畏怖しているB1をして、前記貸別荘から、B1方に電話をさせ、C1子を通じて現金二〇〇〇万円を準備させた上、Xが、B1方に直接電話をしてC1子に対しみのしろ金を要求し、同日午後零時ころ、C1子の依頼を受けたB1の取引先の知人らが、後部トランク内に現金を入れたB1車を運転して、宇都宮市東宿郷六丁目所在のレストラン「デニーズ宇都宮東口店」に到着し、同車を同店駐車場に止めて立ち去ると、付近に待機していた被告人Aが、同車に近寄って右トランク内から手提げ紙袋に入った現金二〇〇〇万円を奪取し、被拐取者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じて財物を交付せしめ(原判示千葉事件第一の事実)、前記のとおり、同月一日午後七時五〇分ころ、B1を支配下に置いた後、同月三日午後零時過ぎころ、前記「デニーズ宇都宮東口店」駐車場において、同人を解放するまでの間、原判示のとおり、千種中学校正門前から前記貸別荘に至る普通乗用自動車(多摩車)内、同貸別荘四畳半和室内、同貸別荘から宇都宮市東宿郷所在の原判示北関東ナショナル住宅株式会社宇都宮事業部駐車場に至る右乗用車内、及び、右駐車場に駐車した同乗用車内において、B1に手錠をかけたり、被告人らが同人を交互に監視するなどして、その脱出を不能にし、B1を不法に監禁した(同第二の事実)というものである。

本件は、前記のとおり、盛岡事件及び郡山事件に関わった被告人Aが、またしても、大金欲しさに塗装業者を略取してみのしろ金を奪おうと目論み、当時塗装工として一緒に稼働していたXとA1を仲間に誘い込んで、犯行に及んだものであり、動機が極めて悪質であるのはもとより、犯行に至る経緯をみても、原判決が六六頁から七二頁にかけて「犯意の発生と準備の状況」及び「本件共謀の状況」として詳細に判示しているとおり、XとA1に誘いを向けて賛成を得ると、直ちに犯行計画を立て、略取した相手を監禁するため前記貸別荘を予約したり、犯行に使用する玩具のけん銃、手錠、ガムテープなどを購入して準備を整えるなどし、この間、略取することが困難と判明したり、誘い出すことに失敗したりして狙う標的を次々と変えたものの、犯行を断念することなく、最終的に本件の被害者であるB1を略取することに決め、具体的な犯行計画を練り上げてこれを実行に移したものであって、その犯行実現への執念には驚くばかりのものがある。更に、犯行態様をみても、原判示のとおり、B1を略取する際、背後から突き飛ばすようにしてB1を乗用車(多摩車)内に押し込むや、玩具のけん銃でその頭部を殴り付け、「動くと撃つぞ。」などと脅迫したり、その両手を背中に回していわゆる後手錠をかけてから、所携のくり小刀で二回位その頭部を殴り付け、ガムテープをB1の口と両目に貼り、同人の身体を後部座席に横にしてその上からトレンチコートを被せ、シートの間に同人の身体を挟み込むようにして腰掛けるなどの暴行、脅迫を加え、B1を前記貸別荘内に監禁した後も、同人に対し、殴る蹴るの暴行を加え、その両手足に手錠をかけ、その着衣を脱がせて下半身を裸にした上、日本刀様のもので執拗に脅し付けるなどし、これにより極度に畏怖した同人をして、自ら自宅に電話をかけさせてみのしろ金の調達を指示させた上、原判示のような経過で現金二〇〇〇万円の奪取に成功して、被告人Aらは各々約六五〇万円の現金を手にしたという、まことに巧妙で大胆かつ粗暴極まりない犯行である。B1は、被告人Aと知り合いというだけで不運にも本件犯行の標的にされたものであり、本件のような仕打ちを受けるいわれなど一切存しない上、略取されてから解放されるまで約四〇時間にわたり被告人Aらから身柄拘束を受けた間、右のとおり、手酷い暴行、脅迫を受けたり、貸別荘内では、両手足に手錠をかけられ、下半身を裸にされるという恥辱まで受けたものであり、その間の死に直面した恐怖感や精神的、肉体的苦痛は、想像を絶するものがあったものと窺われる。また、B1の安否を憂慮した妻C1子の心痛も極めて大きかったことが認められ、同人らの被害感情が極めて厳しいのも当然というべきである。

以上の諸事情に照らすと、千葉事件についても、その犯情は極めて悪質であるといわなければならない。

三  被告人らの個別的な情状について

1  検察官主張の量刑論について

検察官は、被告人C及び同Dに対する控訴趣意並びに被告人A、同B及び同Fの控訴趣意に対する答弁において、概ね次のような主張をしている。すなわち、盛岡事件及び郡山事件は、いずれも、その罪質、動機、殺害の手段・方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響等からして、稀にみる凶悪重大事件である。そして、両事件を敢行した被告人らは、極めて強固な犯罪集団であり、しかもその結び付きは時間の経過にしたがって益々強固になり、一蓮托生ともいうべき強固な犯罪集団を形成していったことが認められるところ、このような集団犯罪においては、各自が犯行に向けて相互に心理的影響を及ぼし、分担行為を補完し合っている上、集団犯罪の構成員の間に主従の関係はなく、それぞれが重要な地位、役割を分担し、一体となって敢行し、分け前も平等に得ている。したがって、量刑上も、全員が全責任を負わなければならないのであって、各人の行為そのものに差異があっても、これを殊更重視すべきではない。すなわち、本件においては、両事件とも、集団犯罪を構成する各自が相互に補完し合いながら、全体として一個の犯行を成し遂げているのであるから、その役割に軽重の差をつけ、それを根拠として共犯者間の量刑に差を設けるのは非論理的である。以上のような主張をしている。

右所論のうち、盛岡及び郡山両事件が、いずれの面からみても稀にみる凶悪事件であることは、先にみたとおりであり、また、盛岡及び郡山両事件の被告人らが、所論のいうように、一蓮托生ともいうべき強固な犯罪集団を形成していたかどうかはともかく、前記説示したとおり、盛岡事件は被告人ら五名が、郡山事件は被告人ら六名及びXが、いずれも事前共謀の上敢行した集団犯罪であり、両事件とも、各自が犯行に向けて相互に心理的影響を及ぼし、分担行為を補完し合い、それぞれが役割を分担し、一体となって敢行していること、被告人らは、両事件において、若干の差はあるものの概ね分け前を平等に得ていることも、所論が指摘するとおりである。更に、被告人らはいずれも、盛岡及び郡山両事件において、他の被告人から強制されるなどして犯行に加わったものではなく、金欲しさ等の動機から自発的に犯行に参加したことが認められる上、両事件とも、当初から組織の長ともいうべき明確な首謀者がいて、他の被告人らが終始その者の指揮、命令下に行動したという事案とは異なるのであって、その意味では、被告人ら各人の行為そのものに差異があっても、これを殊更重視すべきではないとの所論は、盛岡・郡山両事件の犯罪の特質を一面において捉えているものということができる。

しかしながら、先に検討した事件の経過等からも分かるとおり、盛岡・郡山いずれの事件においても、被告人らの間に、犯行計画の立案や実行行為の際において、主導的、中心的な役割を果たした者と、比較的従属的な立場にとどまっていた者がいたことは否定できないところ、この両者の間には、同じく正犯者であるとはいえ、自ずからその責任の大きさに違いがあるといわざるを得ないのであって、この点は被告人らの量刑を定めるに当たり考慮されて然るべきである。しかも、所論のいうように、本件が死刑以外考えられないというのであれば尚更、死刑が人間存在の根元である生命そのものを奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であることに鑑みると、被告人らの刑の量定に当たっては、両事件が、所論指摘のとおり稀にみる凶悪事件であることや、前記のような特質をもった集団犯罪であることを十分考慮しつつも、盛岡・郡山両事件における、被告人らの犯罪集団の中における立場や果たした役割等をも慎重に考慮することが必要不可欠であって、このことは、死刑の選択が許される場合の一般的基準を示したとされる、所論引用の最高裁判例(いわゆる連続ピストル射殺事件・最高裁昭和五八年七月八日判決、刑集三七巻六号六〇九頁)の趣旨からも、当然肯定されるところであると考える。所論としても、盛岡・郡山両事件において被告人ら各自の立場や果たした役割を全く考慮する必要がないという趣旨ではないと解されるが、もし、これらを捨象した集団犯罪の特質それ自体に着目した立論というのであれば、直ちにこれに与することはできないといわざるを得ない。

なお、所論は、盛岡・郡山両事件で、共犯者間において、犯行による分け前を全員で平等に分配することが当然の了解事項になっていたところ、このことは、被告人らの間において、それぞれ役割分担は違っても、全員が一体となり、協力し合って犯行を行うのであるから、その分け前も平等であるとの意識が当然のものとして存在していたからにほかならず、被告人らの間に、いずれが主でいずれが従であるとの認識がなく、全員が平等の立場で犯罪を敢行したことを物語っている旨主張するが、分け前の点が共犯者相互の関係を推し量る重要な要素であることは首肯できるとはいえ、被告人らの間で分け前を全員で平等に分配することが了解事項になっていたとしても、そのことをもって直ちに、被告人らの間に、いずれが主でいずれが従であるとの認識がなく、全員が平等の立場で各犯罪を敢行したと即断することは早計に過ぎるというべきであって、被告人らがどのような認識をもち、どのような立場で各犯行に関わったかについては、犯行に至る経緯や犯行状況等を子細に検討して判断すべきものであるから、所論を直ちに採用することはできない。

2  被告人らの個別的な量刑事情についての検討

(一) 被告人Aについて

まず、盛岡事件についてみると、被告人Aは、被害者のGとは殆ど面識がなかったにもかかわらず、被告人C方に顔を出した際、金になる話があると誘いを受けるや、当時無為徒食の生活を送り、日々の生活費に窮していたことから、金欲しさから安易に犯行に加わったものである。そして、犯行前日の謀議の際には、自ら脅迫役をかって出るなど当初から積極的な態度を示し、本件犯行時においては、Gに対し短刀を突き付ける暴行を加えて犯行の口火を切り、G殺害時においては、同人を穴まで連行し、短刀を使ってGの着衣を切り裂いて剥ぐなど、被告人Aは、要所要所においてかなり重要な役割を率先して果たしていることが認められる。この点所論は、同被告人が真っ先に短刀を突き付けてGを脅迫したのは、被告人Fらの主導のもとに定められた被告人Aの役割分担が、一番最初の脅迫役であったからであり、右の事実をもって、被告人Aが本件犯行において主導的、積極的であったことを意味するものではない旨主張するが、前記のとおり、事前の謀議の際自ら脅迫役をかって出ていることからすれば、主導的であったとはいえないにせよ、被告人Aの積極性を示す行動であることは否定できない。

また、所論は、殺害現場で、Gを穴まで連行し、短刀を使って同人のシャツを切り裂いている行為は、いずれも被告人Bの指示に基づきなされたものであるとして、被告人Aの盛岡事件における従属性、補助性を強調するが、原判決が説示しているとおり、被告人Aは、Gのシャツを短刀で切り裂く際、刺した方が早いなどと提案していることなどに照らすと、被告人Bから言われたにせよ、右の各行為も、被告人Aの本件犯行における積極性を十分窺わせるものというべきである。

これに対し、所論は、被告人Aは、Gの殺害現場において、刺した方が早いなどと主張したことはなく、原判決の認定は誤っている旨主張する。そこで、この点につき検討すると、被告人Dは、原審公判(原審六回、<63>一二九丁裏ないし一三〇丁表)において、「自分が被告人Bに言われて、Gの靴と靴下を脱がせているとき、被告人Aが、ドスで刺した方が早いという言葉を出し、それに対して、被告人Bが、血なんか出せば山犬などが来て掘り起こすからやめろなどと言ってやめさせた。」などと、当時の状況について明確に供述しており、当審公判(当審一九回、<83>一〇〇五丁裏)においても、被告人Aがドスで刺した方が早いということを言ったことは記憶として強く残っており間違いないなどと述べ、原審公判における右供述を維持している。また、被告人Bは、原審公判(原審一一回、<66>八三二丁裏ないし八三三丁表・一三回公判、<67>一〇一一丁裏ないし一〇一二丁裏)において、Gを穴に生き埋めにして殺害する直前、被告人Aが、ドスでぶっ殺してやるなどと言って短刀を手に持ったなどと供述し、当審公判(当審一一回、<82>五二五丁)においても同様の供述をしている。更に、被告人Cは、検察官調書(乙一五、<42>七四八六丁)中で、Gが穴の近くまで連れて来られたころ、被告人Fか同Bのいずれかが、「傷を付けるな。」というようなことをしゃべっており、何か獣が掘ったりするのでまずいというようなことも言っていたような気がするなどと供述し、原審公判でも、被告人Fか同Bのいずれかが、「傷を付けるな。」というようなことを言ったのを聞いた記憶がある旨供述するほか(原審一〇回、<65>六二五丁裏ないし六二六丁表)、Gが穴の近くまで連れて来られたとき、被告人Aが、ドスがどうのこうの、切る切らないという話をし、それを聞いて恐くなってその場から逃げ出したなどとも供述しており(原審九回、<65>五六四丁裏ないし五六五丁裏)、当審公判においては、被告人Aが短刀でGのシャツを切り始めたとき、同被告人が、刺すかと言ったので、Gが刺されると思いその場を逃げ出した旨供述している(当審一五回、<83>七七八丁)。これらの供述のうち、ドスでぶっ殺してやるなどと言って短刀を手に持ったなどという被告人Bの供述は、他の被告人らがそのような供述をしていないことに照らし(なお、被告人Fは、捜査段階等において、被告人AがわめきながらGの衣服を切り裂いた後、大声で叫んで短刀を持ち替えたのを見て、同被告人が短刀でGを刺し殺すと思ったなどと供述するが、後述するとおり、被告人Fの供述は、右の供述を含め全体としてその信用性に疑問があるといわざるを得ない。)、また、被告人Cの右各供述中、Gが穴の近くまで来たとき、被告人Aが、ドスがどうのこうの、切る切らないという話をし、それを聞いて恐くなってその場から逃げ出したとの原審公判における供述、あるいは、被告人Aが短刀でGのシャツを切り始めたとき、同被告人が、刺すかと言ったのでGが刺されると思いその場を逃げ出したとの当審公判における供述は、同被告人の捜査段階における供述等に照らし、そのままには信用し難いけれども、前記被告人Fの供述や被告人Cの捜査段階における供述に、右各供述をも併せ考慮すれば、少なくとも、被告人Aが、ドスで刺した方が早いという言葉を述べたことは、十分に認められるというべきである。これに対し、所論は、被告人Aが、殺害現場から被告人B宅に戻る途中の改造ワゴン車の中で述べた言葉を、他の被告人らが、殺害現場で言ったものと勘違いして供述している旨主張するが、他の被告人らの前記各供述に照らし採用できない。以上の次第であるから、被告人Aが、Gの殺害現場で刺した方が早いなどと主張したとの原判決の認定に誤りはなく、所論は採用できない。

したがって、以上の諸事情に照らすと、被告人Aは、盛岡事件において、当初付和雷同的に犯行に加わったものであり、犯行の途中では所論指摘のようにGの見張り等の行為が多かったとはいえ、その果たした役割は決して小さいとはいえないのであって、所論がいうように、補助的かつ従属的なものであったとは到底認め難く、犯情は極めて悪質である。

次に、郡山事件に関してみるに、前記のとおり、同事件は、当初、被告人Aが、郡山市内で建設業を営む会社社長(Y)を誘拐して大金を奪おうと目論み、Xや被告人Cらに声をかけて仲間に誘い込み、手錠やスコップを用意するなど犯行の準備を重ね(以下「Y誘拐計画」という。)、いったんその計画が頓挫しそうになるや、被告人Cらに対し盛んに計画の続行を懇請して、結局、最終的に本件犯行の共犯者である被告人六名及びXが、右計画を実行すべく郡山市内に結集したものである。そして、原判示のとおり、被告人Aは、被告人Fや同Bが加入した後も、その主導的な役割を維持して本件犯行の発端を作り、その実現に向けて積極的に行動し、Y誘拐計画が挫折するや、代わりに狙う標的としてWを選定し、その犯行計画の立案に際しても進んで有力な提案を行い、犯行の際には、Wに電話をかけて同人を誘い出す行為に及んだのを初めとして、W誘拐の際には、大手建設会社の社員を装い言葉巧みにWを乗用車に乗せ、更に、貸別荘では、Wの頚部に模造の居合刀を押し付けて脅迫し、同人の死体を埋めるための穴掘りに参加し、金員奪取の知らせを受けてW殺害の凶行に及ぶ際には、同人に対しこれで帰すからなどと空空しいうそを言って貸別荘から連れ出すなど、計画から実行に至るまで本件犯行全般にわたり、極めて重要な役割を果たしている。

これに対し、所論は、郡山事件は、外形的にはY誘拐計画の延長線上で行われてはいるが、郡山事件とY誘拐計画は質的にも内容的にも全く異なるものであり、右二つの事件を同質の一連の流れとしてとらえるのは全くの誤りである旨主張する。

しかしながら、そもそも、被告人AがYの誘拐を思い立ちその計画を進めなければ、本件犯行もなかったという点で、被告人Aの責任は否定しようがない上、その点はさておいても、所論も述べるとおり、Wに対する本件犯行は、Y誘拐計画の延長線上で敢行された事件であることは明白であるところ、Y誘拐計画が失敗していったん被告人らの共謀関係が解消され、その後新たに共謀が成立して本件犯行が行われたというような事情でもあればともかく、先にみた経過からすれば、Y誘拐計画の被告人ら及びXの共謀関係が依然として継続する中で、単に誘拐する標的をYからWに変えたに過ぎないのであって、二つの事件を同質の一連の流れとしてとらえるのは誤りであるとの所論は、到底首肯することはできず、本件犯行の発端を作った被告人Aの責任は重大というほかはない。なお、所論は、Y誘拐計画において、被告人Aがその発端を作ったことはそのとおりであるが、その主導権は、途中から被告人Cや同Fら岩手グループに移って行った旨主張するけれども、関係各証拠によれば、被告人Cや同Fが、犯行計画について種々意見を述べたことは認められるとはいえ、被告人Aが終始Y誘拐計画の中心的な立場にあったことは、同計画が失敗した際、被告人Bや同Cから厳しく非難されたことからも明らかというべきである。

また、所論は、本件犯行は、被告人Bを初めとする岩手グループが、Yに対する犯行計画に代わる犯行を実施するよう強く求めたことから出発したものであるところ、被告人Aは、Y誘拐計画が失敗して岩手グループに迷惑をかけたという負い目があったことや、以前に盛岡事件のことを他人に漏らしたとして、被告人Cから暴行を受けたことがあり、もし岩手グループの要求に従わなければ、自分自身の生命、身体が危険にさらされる不安もあり、やむなく右要求に応じて新たな提案をしたものであって、実際には、被告人Aが進んで有力な提案を行ったというものとはほど遠い状況であったなどと主張し、被告人Aは、当審公判(二〇回公判、<84>一〇六二丁表以下)において右主張に沿う供述をするが、被告人Aが、Y誘拐計画から引き続く一連の郡山事件において終始積極的であったことは、前記のとおり、Y誘拐計画がいったん頓挫しそうになった際、被告人Cらに対し盛んに計画の実行を懇請していることや、本件犯行計画の立案に際して、丙田建設の名前で仕事を頼みたいと言えばWが呼出しに応じるのではないかなどと進んで提案を行い、呼び出す場所についても提案していることなどをみれば明らかであり、被告人Aの検察官調書(乙四〇、<44>八〇七丁表ないし八〇七七丁表)における、「岩手の連中は、Y社長をさらって金にすることは期待できないと踏んだものと感じ、自分は、何とか岩手の連中にとどまって欲しいと思い、被告人Cに被告人Fから聞いていた盛岡の金持ちの話をしたが、その話に乗ってこなかった。その後、被告人Bから、自分に対し、「誰かほかにいないのか。」と言ってきたので、その言葉を聞いて、まだやる気が残っていてくれるんだなと思い、ありがたく感じ、考えをめぐらした末、乙野塗装の社長が金を持っているらしいと言った。」という供述内容は、他の関係各証拠に照らしても、その信用性を十分認めることができるのであって、以上に照らし、右所論に沿う被告人Aの原審及び当審各公判供述は信用できず、所論は採用の限りではない。

更に、所論は、被告人Aは、Y誘拐計画が失敗したことで、以後犯行の主導権を被告人F、同B、同Cら岩手グループに完全に握られ、被告人Aは、専ら同グループの指示の下、終始岩手グループに従って行動していたものであり、郡山事件における被告人Aの役割は従属的かつ補助的なものに過ぎなかったなどと主張する。しかしながら、先に検討したとおり、Wに標的が変更された後、同人を誘拐する手段や現金強奪後のWの処置などに関する謀議については、被告人Fが中心となって行われ、W誘拐後の現金強奪の手はずも同被告人が主導的役割を果たしているほか、W殺害の現場においては、被告人Bが主導的な立場にあったとはいえ、前述したとおり、被告人Aにおいても、Yに代わる標的としてWを選び出したという、本件犯行にとって決定的に重大な発言をしていることに加え、犯行計画の立案を際して進んで有力な提案を行ったこと、Wに電話をかけて同人を誘い出す行為に及んだこと、W誘拐の際、大手建設会社の社員を装い言葉巧みにWを乗用車に乗せたこと、貸別荘内でWの頚部に模造の居合刀を押し付けて脅迫したこと、Wの死体を埋めるための穴掘りに参加したこと、Wに対し帰してやるなどとうそを言って殺害するため貸別荘から連れ出したことなど、極めて重要な役割を果たしているのである。そして、これら一連の言動は、被告人Fらの指示に従って行動したというものではなく、被告人Fが中心となって行われた謀議で衆議一決した犯行計画に基づき、その役割を果たしたものであって、郡山事件において、被告人Aの役割が、従属的かつ補助的なものに過ぎなかったなどと到底いうことはできない。

なお、所論は、被告人Aにおいては、共犯者間でW殺害という方法が決定された後においても、内心は何とかこれを避けられないかという気持ちで一杯であり、金員奪取に成功したとの連絡を受けた被告人Bが、Wに対し、「解放だ。」と発言した時には、その言葉を信じ、殺害しなくて済むとほっとしたものであるなどとも主張し(弁論要旨五丁)、被告人Aは、原審及び当審各公判において、右主張に沿う供述をするが、前記説示したところに照らせば、被告人Aの右供述は到底信用できず、所論は採用の限りではない。

更に、千葉事件に関してみると、先にみたとおり、同事件も郡山事件同様、被告人Aが、金持ちの社長をさらって大金を奪うことを最初に思い立ち、XやA1に話を持ちかけたのを契機として敢行されたものであり、自らは、面識のあるB1に自己の存在を悟られないよう、同人と面識のないA1に指示を下すなど巧みに立ち回っており、同事件の首謀者であることは明らかである上、前述したとおり、犯行の動機や犯行態様の悪質さは言うに及ばず、狙う標的を次々と変えながら、あくまでも犯行を断念することなく、最終的にB1に狙いを定めて犯行を成し遂げた犯行実現への執着心には驚きを禁じ得ない。

所論は、被告人Aは、千葉事件において被害者の殺害を目論んだことはなく、原判決が当初被害者の殺害を目論んでいた旨説示しているのは誤りである旨主張するが、Xは、原審公判(原審四回、<63>三七丁表以下)において、「最初、自分と被告人A、A1の三人の間で、乙川塗装の社長を拉致して金を受け取ったら、殺さなくてはいけないという話が出ており、それ以降被害者をどうするかについては詳しく話し合っておらず、B1を狙うことに決まった時点でもその話は生きていたと思う。自分として、B1を殺害しようという気持ちが消えたのは同人を拉致した時点であり、三人の間で同人の殺害を止めようと言葉に出したのは五月二日だったと思う。」などと、具体的かつ自然な供述をしている上、被告人Aも、原審公判(原審四回、<63>一五丁表ないし一六丁裏)において、「最初三人で、B1を殺した方が安全ではないかという話をしたことがあり、その後、五月二日に金を取りに行く車中で、Xが、「B1は警察に言うだろうか。」などと聞いてきたことをきっかけに、B1を殺さないで帰そうということを二人で話した。」などと供述し、当審公判(当審三〇回、<85>一七一三丁表、裏)においても、「乙川塗装の社長を拉致する話のとき殺さなくてはいけないという話が出ており、それ以降その話はずっと尾を引いていると思った。」などと供述していることに照らすと、どの程度B1殺害を現実的なものとして考えていたかは別にして、当初は被害者(B1)の殺害も目論んでいた旨の原判決の説示に何ら誤りはないのであって、所論は採用の限りではない。

以上検討したとおり、被告人Aは、盛岡事件、郡山事件及び千葉事件のすべてに関与し、いずれの事件においても、積極的に行動し、重要な役割を果たしたことが明らかである。とりわけ、郡山事件においては、事件の発端を作ったのみならず、被害者の選定という同事件にとって決定的に重大な所為に及んでおり、また、千葉事件においては、その首謀者であったもので、被告人Aの罪責は、誠に重大というほかはないのである。

これに対し、被告人Aに有利な情状として、千葉事件においては、郡山事件と概ね同様の経過をたどりながらも、最終的に被害者を殺害することなく解放していること、同犯行で得たみのしろ金のうち、半額にあたる合計一〇〇〇万円余りが同被告人らから押収されていること、被告人Aは、千葉事件で逮捕された後、郡山事件について間もなくこれを自供し、更に盛岡事件についても進んでこれを自白しており、これらの事件の解明に繋がったこと、各犯行を深く反省悔悟しており、被害者らの冥福を祈る日々を送っていること、前科関係をみると、昭和三六年に窃盗罪により懲役一年、三年間刑の執行猶予に、昭和四四年に銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗及び恐喝未遂の各罪で懲役二年、三年間保護観察付き刑の執行猶予に処せられているが、それ以外には盛岡事件に至るまで、交通事犯による罰金前科以外に前科がないこと、同被告人はこれまで二回婚姻しており、四人の娘がいること、被告人Aの親族が、一〇〇万円を工面して盛岡事件の遺族に交付していること、前妻との間の子供らが、郡山事件の遺族のもとを訪れて焼香し、香典として五〇万円を提供(ただし、その後返戻されている。)するなど謝罪の気持ちを表したこと、鹿児島県屋久島在住の被告人の妹が、当審公判に出廷し、不遇な環境の中で一家の大黒柱として自分たちの生活を支えてくれた被告人Aに対する強い感情の念を表し、自分たちの命ある限り兄である被告人Aを待ち続ける旨述べていることなどの事実が認められる。

(二) 被告人Bについて

まず、盛岡事件に関してみると、被告人Bは、かねて、Gから債権の取立ての件で罵倒されたり、同人が債権の取立てを二重に依頼していて、それを知らずに取立てに出向いた同被告人が大恥をかいたことがあったりしたことに加え、戊川タクシーに対する恐喝の一件が失敗に終わったことなどで、Gに対し快く思っていなかったところ、被告人Fから、Gを脅して金品を奪う話を持ちかけられるや、Gに対する制裁の気持ちも手伝って、金欲しさから安易にこれに賛同し、犯行の前日、被告人Fが自宅を訪れて皆を集めるように言われると、直ちに被告人C宅に電話をかけて他の被告人らを呼び集め、自宅で謀議を行った上、犯行に際しては、Gを言葉巧みに誘い出して空き家に連れ込み、同人を椅子に緊縛した上、同人から書類等の在処を聞き出すなどしている。そして、Gの殺害に関しては、殺害方法を穴を掘って生き埋めにすることに同意し、殺害現場において、一連の穴掘りを指図した上、Gを足蹴にして穴に突き落し、その上から土をかぶせるよう指示するなど、中心的役割を果たしている。なお、先に検討したとおり、被告人Dの当審公判における供述等に照らすと、小岩井農場に赴いた際に使用された車両として、改造ワゴン車の他にもう一台乗用車が使用された可能性があり、被告人Bは、被告人Cとともに、その乗用車を使ってGを生き埋めにするための穴を掘る場所を探しに出向くなど、Gの殺害に関して、原判決が認定判示した以上に深く関与していたのではないかとの疑いを否定できないが、盛岡事件に関する全証拠を検討してみても、そのような事実があったとの確信を抱くまでには至らない。したがってこの点は、被告人Bの果たした役割を検討する上で、小岩井農場に赴く際などに使用された車両は、原判示のとおり改造ワゴン車一台であったとの前提で考えることとするが、関係各証拠によれば、少なくとも、被告人Bの小岩井農場における行動として、右判示した事実は十分認めることができるというべきである。更に、犯行後における行動をみると、GのBMW車を処分して、分け前として約二五万円を手にしたほか、被告人CらとともにGの債権回収に奔走して収益を得るなどの行動に出ているのであって、以上に照らすと、被告人Bが盛岡事件において果たした役割は、極めて重大であるといわざるを得ない。

次に、郡山事件についてみると、被告人Bは、Y誘拐計画の遅い段階から参加したものであるが、前示のとおり、同計画が失敗して被告人らがいったん貸別荘に赴いた際、Yに代わる標的を求める発言をして被告人AからWの名を引き出し、具体的な犯行計画の立案段階では、Wの処分をどうするか様々な意見が出た際、被告人FのW殺害の意見に同調し、犯行の発覚を防ぐためにはWを殺害するしかないなどと主張して、結果的に反対論を押し切る役目を果たしている。更に、W誘拐後の謀議で役割分担が決まると、被告人EとXにWの殺害役を命じ、Wの死体を埋めるための穴を掘る場所を探しに出掛け、つるはしを買い渡して穴掘りの援助をするなどし、被告人Fから現金の強奪に成功したとの電話を受けるや、解放するなどと言ってWを騙して貸別荘から連れ出し、前記説示したとおり、殺害現場では、被告人EとXに対してW殺害の合図を送り、被告人EとXがプラスチック製ひもをWの頚部に巻き付けて絞め付けている最中、Wの腹部を数回殴打する暴行に及び、被告人EとXに再度Wの頚部をひもで絞め付けるよう命じて止めを刺して殺害し、その死体を穴に投棄した上、土をかぶせて埋没させたものである。このように、被告人Bは、Y誘拐計画に引き続く一連の郡山事件に関与した時期こそ遅かったとはいえ、いったんこれに参加してWの誘拐計画が決定するや、積極的な態度に終始し、共犯者の中でもひときわ精力的に行動しているのであって、郡山事件においてもまた、被告人Bの果たした役割は重かつ大であったというほかはない。

以上のとおり、被告人Bは、盛岡事件及び郡山事件いずれにおいても、その果たした役割は重大で、犯情は極めて悪質であるといわざるを得ない。とりわけ、いずれの事件においても、被害者殺害の際に被告人Bのとった一連の行動は、人命を奪うことの罪悪感や恐怖心など微塵も窺われない大それた所業であり、最悪のものといわざるを得ない。加えて、被告人Bは、郡山事件から数年後に、再び被告人F、同Cらとともに誘拐事件を計画敢行しようとしたことが認められる上、本件が捜査機関に発覚するや、他の被告人らとともに罪証隠滅工作に及んでいることも犯情として悪質である。

これに対し、所論は、被告人Bは、盛岡事件において、被告人Fに指示されるまま行動したに過ぎず、郡山事件においても、同被告人から全力をあげて言いつのられ、結局は蛇に睨まれた蛙のようになって、その最も忠実な兵卒として行動してしまったものであり、このような被告人Bと被告人Fとの関係を直感的に把握していた被告人Aは、その関係を利用し、被告人Cも被告人Fを後押しするかたちで被告人Bを利用したものであるなどと主張するが、所論に沿う被告人Bの原審及び当審各公判における供述が信用できないものであることは前記説示したとおりである上、関係各証拠を検討してみても、盛岡・郡山両事件において、被告人Fが、その卓越した能力から犯行計画立案の際に主導的な役目を果たしており、その際被告人Bに対し役割分担を指図したりしたことはあったにせよ、被告人Bが、被告人Fに指示されるまま忠実な兵卒として行動したなどとは到底認められないのであって、所論は採用の限りではない。

これに対し、被告人Bに有利な情状として、被告人Bは、原判決が説示する同被告人の身上経歴(一〇頁ないし一二頁)のとおり、昭和四七年に婚姻し一男一女をもうけ、石鳥谷町内に自宅を構えて、昭和六一年ころからは、「丙原工業」の名称で小規模ながら土木建築の仕事に従事していたこと、昭和四六年と昭和五二年に各一回傷害罪の罰金刑が、昭和六二年に道路交通法違反(速度違反)の罪の罰金刑がある以外には前科がないこと、本件各犯行が発覚した直後には、いったんは焼身自殺を考えて遺書をしたためたことがあったこと、本件各犯行を反省悔悟しており、被害者らの冥福を祈る日々を送っていること、被告人Bの妻が、原審及び当審各公判において、もしできることであれば被告人Bを含めて家族で一緒に暮らしたい旨その心情を吐露していることなどが認められる。

(三) 被告人Fについて

盛岡事件において、被告人Fは、先に検討したとおり、Gから自己の債務を免れるとともに、あわよくば同人から金品を強取する目的で、被告人B及び同CにGを脅して同人から金品を奪う話を持ちかけて、本件犯行の発端を作ったのみならず、犯行前日には、謀議を主宰して、Gを誘拐して金品を奪う計画を練るとともに、犯行の発覚を防ぐためにはGを殺害する必要があることを強く主張して他の被告人らを説得し、G殺害を含む本件犯行計画を立案したものであり、本件犯行の首謀者の立場にあったことは明らかである。また、犯行時において果たした役割をみても、空き家に連れ込まれたGから、被告人Bを介するなどして、金品を強奪したり書類等の在処を聞き出すなどし、同人から奪った鍵を使い、被告人CとともにG方の家捜しに赴き、土地登記済権利証などを強奪したのみならず、その際、原判決が一二九頁から一三一頁にかけて説示しているとおり、Gがあたかも交際中の女性と一緒に行方をくらましたかのように室内に偽装工作を施し、更に、小岩井農場では、適当な古井戸がないと分かると、被告人Bや同Cらと示し合わせて、急きょGの殺害方法を穴に生き埋めにする方法に変更し、殺害現場では他の被告人らとともにスコップで土をかけGを穴に埋没させて殺害するなど、その果たした役割は極めて重大である。更に、犯行後における被告人Fの行動をみても、前記のとおり、BMW車を処分した分け前として約二五万円を受け取ったり、Gから強取した前記権利証を用いて、その土地を処分換金しようとしたりした(乙一七八、<57>一一三二八丁以下)ほか、Gの身を案じてその行方を尋ねてきたGの内妻に対し、Gが交際中の女性と逃亡したかのごとく思い込ませる言動をし、内妻がGの所在を探しに秋田方面に赴いた際には白白しくこれに同行する(R1子の検察官調書、<13>一九三四丁裏以下)など、Gの殺害など意に介さない行動に終始している。なお、前述したとおり、原判示の認定事実のうち、被告人Fの提案により、Gの殺害方法を穴を掘って生き埋めにすることに変更したとの点、穴を掘る適当な場所を探すために走行していた改造ワゴン車が、原判示七ツ頭沢橋手前付近に至り、被告人Fの指示で停車したとの点などについては、そのような事実がなかった可能性も否定できないが、これらの事実を除いて考えてみても、右に説示したとおり、被告人Fが本件犯行において主導的かつ中心的役割を果たしたことは十分に肯定できるのであり、以上に照らすと、盛岡事件における被告人Fの犯情は、被告人らの中で最悪といっても決して過言ではない。

次に、郡山事件についてみると、被告人Fは、原判示のとおり、Yの誘拐計画の途中から参加したものであるが、原判決が五〇頁から五八頁にかけて認定判示しているとおり、被告人Fが盛岡から郡山にやって来て右誘拐計画に加わるや、早速本件犯行で使用された貸別荘の手配をして監禁場所を確保し、Yの誘拐に失敗していったん貸別荘に赴いた際、標的をWに変えるきっかけを作る発言をした上、本件犯行計画を打ち合せた際には、一連の謀議の中心となって、短時間で緻密な犯行計画を作り上げたのみならず、Wの殺害を強く主張して反対意見を抑え、最終的に同人の殺害もやむなしとの共犯者全員の同意を取り付けている。そして、犯行の際には、貸別荘内に連れ込まれたWに対し、執拗に脅迫を加えてその反抗を抑圧し、W自身が金策するように仕向けたり、殺害用のひもを確認する(乙四五、<45>八三七三丁表等)などW殺害の準備を行い、自らは現金を受け取る立場にまわり、現金強奪に成功するや、直ちに被告人Bにその旨連絡を入れて予定通りW殺害を依頼し、その後逃走したものである。このように、被告人Fは、郡山事件においても、謀議を主宰したのみならず、犯行の際にも中心となって積極的に行動しているのであって、その犯情はこれまた最悪といわなければならない。

以上のとおり、被告人Fは、盛岡事件及び郡山事件いずれにおいても、その犯情は最悪といわざるを得ないところ、とりわけ、いずれの事件においても、被害者の殺害を強く主張して他の共犯者らを説得し、これを実行ならしめた点において、その責任の重大さは各事件の共犯者の中でも際立っている。加えて、被告人Fは、郡山事件から数年後に、再び被告人Bや同Cらとともに誘拐事件を計画敢行しようとしたことが認められる上、本件各事件発覚後、他の被告人らと罪証隠滅工作に出たのみならず、いち早く逃走して、相当期間にわたり捜査機関の追及を免れていたことも、犯情として悪質であり、更には、前述したとおり、被告人Fの盛岡・郡山両事件に関する一連の供述を見る限り、同被告人が、後記のとおり被害者らの冥福を祈っているとはいえ、各犯行について真に反省しているか疑問なしとせず、この点も、量刑上全く考慮しない訳にはいかない。

これに対し、被告人Fに有利な情状として、同被告人にはこれまで前科前歴がないこと、長年にわたって警察官として奉職していたこと、妻との間に幼い子供がおり、前妻との間にも二人の子供がいること、被告人Fの妹が、当審公判に出廷し、同被告人が、幼いころに母親をなくし、父親が警察官で家を留守にしがちな境遇の中で、妹の面倒を見るなど兄としての役割をきちんと果たした旨述べ、兄が戻って来て欲しい旨証言していること、被告人Fは、現在被害者らの冥福を祈って毎日読経をしていることなどの事実が認められる。

(四) 被告人Eについて

被告人Eは、郡山事件に関与したものであるが、平成元年六月下旬ころ、被告人Cから、人を誘拐して金を奪う儲け話に乗らないかなどと誘いを受けるや、大金欲しさに二つ返事でその誘いに応じ、Y誘拐計画の早い段階から本件に関わったものであり、七月一九日以降他の共犯者らと行動をともにして、翌二〇日の午前中行われたW殺害を含む本件犯行計画の謀議に参加して、本件犯行の共謀を遂げた上、W誘拐の際には、事前に決められた役割分担に従い、同人を誘拐する車両を運転し、Wを貸別荘に監禁した後は同人を監視するなどし、被告人BからWの殺害役を命じられて、いったんはこれに反発したものの、結局これを承知し、Wに電話させる際には不用意な会話に備えて内容を傍受し、最後には、車で連れ出したWを、被告人Bの合図を受けてXと二人掛かりで絞殺し、その死体を穴に埋没させて遺棄したものである。

これに対し、所論は、被告人Eは、被告人Bから、七月二一日の早朝にWの殺害役を命じられた時点で初めて、Wを殺害することを認識したものであり、Y誘拐計画を含むそれ以前の段階において、被害者を殺害することなど全く念頭になかったのであって、この点、原判決が、被告人Eの前記犯行内容は、当初の計画から十分に予想できたものであり、同被告人は、これを認識しつつも犯罪集団に身をとどめて実行に加担した旨説示しているのは、誤った事実認定である旨主張する。

しかしながら、先に検討したとおり、七月二〇日の午前中、郡山事件の共犯者全員が集まってW誘拐の犯行計画について話し合いがもたれた際、誘拐してきたWを最終的に殺害することについても謀議が遂げられたものと認められるから、その時点で被告人Eも、当然Wの殺害を認識したものというべきである。のみならず、被告人B(乙五四、<45>八五四四丁表、裏)及び同C(乙六〇、<46>八六八一丁裏)の各検察官調書中の供述に加えて、被告人Dの当審公判における供述(当審二五回、<85>一四二一丁裏ないし一四二三丁表)をも併せて考慮すれば、原判示のとおり、七月一九日の午後、花巻から郡山に向かう車中において、被告人Bや同Cが、被告人Eに向かって、殺す場面もあるなどと覚悟のほどを確かめたところ、同被告人が大丈夫だという返事をしたとの事実を認めることができる。これに対し、所論は、そのような事実のあったことを否定し、被告人Eは、その検察官調書(乙八〇、<47>九一三二丁表、裏)中において、被告人Dと車の運転を代わる際、被告人Bから、運転に気を付けろという趣旨で「E、大丈夫か。」などと言われたに過ぎないなどと供述し、当審公判(当審二六回、<85>一五一七丁裏ないし一五二〇丁表)でも同旨の供述をするが、右検察官調書中で検察官から質問されているとおり、当時トラック運転手として頻繁に高速道路を運転していた被告人Eに対し、わざわざそのような言葉をかける必要などないと思われることや、捜査官が、そのような言葉じりを捉えて、敢えて虚偽の会話を作り上げ、前記被告人Bや同Cの各検察官調書が作成されたとは考え難いことからしても、被告人Eの右供述は信用できない。また、被告人Bは、当審公判(当審二一回、<84>一一七七丁裏ないし一一七八丁表・同二四回、<84>一三二四丁表)において、同被告人の右検察官調書で述べられているような事実はなく、車中では事件のことは一切しゃべらなかったなどと供述するが、原審公判(原審二三回、<71>二〇二一丁表)ではこれと異なる供述をしており、同被告人の原審及び当審各公判における供述は信用できない。更に、被告人Cも、当審公判(当審二三回、<84>一二六五丁裏)において、郡山に向かう車中では、体がかかるとか殺すとかいう話はなく、事件に関しては、被告人Aの段取りがどうなっているか、犯行がうまくいくかなどという話が交わされたに過ぎないなどと供述するが、被告人Cの当審公判における、同被告人の前記検察官調書の信用性に関する供述はおよそ説得力に乏しいものである上、車中で交わされた話の内容についての供述も、原審公判(原審二二回、<70>一八七六丁表、裏)における供述と食い違っており、被告人Cの当審公判における右供述も信用性に乏しい。なお、所論は、被告人Dの当審公判における供述の信用性につき、同被告人は、被告人Eが粋がって「ばっちりよ。」などと喋っているように見えたと供述していることからすると、車中の会話はそのようなものでしかなかったということも意味しており、被告人Dが供述しているような、「最後に殺す場面もあるからな。」ということが実際に言葉として出たか疑わしいとし、被告人Dの供述は、盛岡事件を経験している同被告人の主観的な言葉の捉え方の問題であって、盛岡事件を経験していない被告人Eにとっては何ら意味を持つものではないなどと主張するが、被告人Dは、当審公判において、郡山に行く車中で殺す場面もあるという話が出ていたということを明確に供述しているのであって、被告人Dの当審公判における供述について、所論のいうような、盛岡事件を経験している者としていない者との言葉の認識の違いを問題にする余地はないというべきである。

したがって、以上に照らすと、被告人Eの前記犯行内容は、当初の計画から十分に予想できたものであり、同被告人は、これを認識しつつも犯罪集団に身をとどめて実行に加担したとの原判示認定に誤りはないのであり、被告人Eは、被告人Bから、七月二一日の早朝にWの殺害役を命じられた時点で初めて、Wを殺害することを認識したとの所論は、採用できない。なお、所論は、最初から被害者殺害の話が出ていれば、気が弱くおとなしい被告人Eでは脱落してしまうのが目に見えていたから、「殺し役」決定の際に謀議にはわざわざ話し合いから外し、ぎりぎりの時点で殺害の話を伝えたなどと主張するが、被告人Cや同Bら他の被告人が、そのような配慮をしてまで敢えて被告人Eを犯行仲間に加えたとは考えられず、また、当初被告人Eとともに誘いをかけたW1やX1については、Y誘拐計画の途中で犯行仲間から外しながら、被告人Eについては最後まで犯罪集団に留まったことからしても、右所論は採用できない。

次に、所論は、被告人EがW殺害の実行行為を行ったのは、被告人Bから「お前がやらなければ、お前も一緒に殺す。」などと言われ、それを拒めば同被告人自身が危害を受けかねない状況の下に置かれていたからであるなどと主張する。

そこで、検討すると、被告人Eは、原審(原審二〇回、<70>一六六三丁表ないし一六六五丁表)及び当審(当審二五回、<85>一四三九丁裏、一四四三丁裏)各公判において、右所論に沿う供述をするほか、当審で取り調べた同被告人の平成三年七月四日付け警察官調書(当審乙三、<80>一一一丁裏ないし一一三丁表)においても、同旨の供述をしているが、被告人Eのこれらの供述は、同被告人が、被告人Bから殺害役を告げられるまでWは殺さないで帰すものと思っていたところ、被告人BからWの殺害を命じられてこれに強く反発した際の出来事として述べられているのであるが、この点は、前記説示したとおり、当時被告人Eがそのような認識でいたとは認められないことや、被告人Bから殺害役を言われた際の被告人Eの心境等についてかなり詳細に記載されている同被告人の検察官調書(乙八一、<47>九一九三丁以下)では、被告人Bから脅迫めいたことを言われたとは述べていないことなどに照らすと、被告人Bから、「お前がやらなければ、お前も一緒に殺す。」などと言われたとの被告人Eの供述を、直ちに信用することは困難である。もっとも、前掲の各証拠のほかXの検察官調書(乙四五、<45>八三七〇丁裏ないし八三七二丁裏)等の関係各証拠によれば、被告人Bが被告人EにWの殺害役を告げた際(その時期は、前記各証拠に照らすと、七月二一日の早朝である可能性が高い。)、被告人Eは、露骨に不満を表し、被告人Bに対し面と向かって反論したため、同被告人から寝室に連れて行かれて説得を受けたことは明らかであり、このように、被告人Eの被告人Bに対する抵抗はかなり強いものであったことが窺われることに照らすと、その際、被告人Bが、被告人Eを説得する言葉として脅迫めいた言葉を吐いた可能性も全く否定することはできないが、仮にそのような事実があったとしても、関係各証拠から認められるその後の被告人Eの行動、とりわけ、本件犯行後、共犯者全員で成功を祝って祝盃を上げ、更に女遊びなどの遊興に出向いていることや、本件犯行から数年後に、再び被告人F、同B、同Cらと誘拐事件を計画敢行しようとしたことなどに照らすと、所論のいうように、被告人Eが、被告人Bから危害を受けるのを恐れてやむなく殺害行為に及んだものとは認められず、被告人Eが、前記検察官調書中で述べているように、被告人Eとしては、W殺害に一番積極的であった被告人Bあたりが殺し役になるだろうと考え、まさか自分にW殺害の役目が回ってるとは思ってもみなかったことから、被告人Bに対し「何で俺がやるのか。」と言って反発したが、被告人Bから説得されて、最終的にはここまで来たら後戻りはできないと考えて殺害役を承諾したものと認められる。なお、被告人Eは、当審公判において、被告人Bから殺し役を命じられた際、同被告人がカッターナイフとひもを持っており、それが非常に威圧感になった旨供述するところ、所論は、右の事実は、被告人Eが殺害を実行するグループから離脱することを客観的に不可能にする要素として重要であるなどと主張するが、仮に、被告人Bが、被告人EにWの殺害役を命じた際、カッターナイフとひもを持っていたことが事実であったとしても、被告人Eは、カッターナイフの点については、捜査段階や原審公判において何ら供述していない上、当審公判において、「そのナイフでどうのこうのされるわけでもなかったので、(検事さんに)あえて言いませんでした。」(当審二六回、<85>一五三五丁裏)とも供述していることからすれば、被告人Bがカッターナイフとひもを持っていたことが、被告人Eの殺害役承諾の意思決定に格別影響を与えたとは思われない。

その他、所論は、被告人Eが、Wを逃がそうとして一人で同人を見張っているときに部屋を出るという行為をした旨主張するが、所論が引用する被告人Fの供述(原審二七回、<72>二三二五丁以下)が、右主張の根拠となるとは思われない上、被告人Eは、当審公判(当審二五回、<85>一四四八丁表)では、Wを逃がす行為として窓を少し開けたなどと供述するにとどまっていることからしても、所論は採用できない。

そこで、以上検討したところを踏まえて被告人Eの罪責を考察すると、前記説示したとおり、被告人Eは、被告人Bから殺害役を命じられて抵抗を示したとはいえ、最終的にはこれを承諾し、W殺害の実行行為に及んだものであって、所論のいうように、被告人Bから脅迫されて、拒否する余地のないまま殺害役を命じられWの殺害行為に及んだものとは言い難い上、その他の役割についてみても、被告人Fや同Bの指示に従い、終始従属的な立場で行動したとはいえ、その果たした役割は決して付随的なものではなく、本件犯行の罪責の重大性等に鑑みると、犯情は誠に悪質であるといわざるを得ない。

これに対し、被告人Eに有利な情状として、前記のとおり、同被告人の果たした役割は重大であるが、その立場としては、終始従属的なものにとどまっており、被告人Fや同Bらの指示に従って行動したものであること、平素はトラック運転手として正業に従事していたこと、道路交通法違反の罰金前科が一回ある以外に前科前歴がないこと、十分反省の態度を示しており、被害者の冥福を祈っていることなどの事実が認められる。

(五) 被告人C及び同Dに対する検察官の控訴趣意に対する判断

被告人C及び同Dに対する検察官の量刑不当の各所論(以下、単に「所論」という。)は、概ね次のようなものである。

すなわち、盛岡事件及び郡山事件は、いずれも、その罪質、動機、殺害の手段・方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響等からして、稀にみる凶悪重大事件であり、死刑相当事案であることは疑う余地がないところ、被告人C及び同Dの両名(以下、単に「被告人両名」という。)は、盛岡事件、郡山事件の二件に、躊躇のない確定的犯意に基づいて犯行に加わり、共犯者とともに強固な犯罪集団を形成して、互いに相補いながら不可欠な役割を分担し各犯行に及んだのであり、その関与は、両名とも単なる従属的、消極的なものにとどまるものではなく、したがって、その量刑が原審において死刑判決を受けた被告人A、同B及び同Fの量刑を下回るべき合理的理由はない。しかるに、原判決は、証拠の一面のみを捉えて、これを被告人両名に有利な情状として過大に評価したものであるばかりか、両事件が集団犯罪であるという特質を看過した誤りを犯しており、しかも、被告人両名が、両事件において果たした役割及び刑責が重大であるのに、殊更、死刑判決を受けた右被告人三名より軽く評価した誤りを犯している。結局、原判決が、被告人両名について、死刑判決を受けた三名と区別して無期懲役を選択した理由として判示するところは、いずれもその理由自体が納得し難いものである上、仮に両事件の共犯者間に何らかの情状上の差異が認められるにしても、両事件においては、その差異は微々たるものであり、被告人両名を、死刑判決を受けた三名と区別して無期懲役に処するほどの違いをもたらすものではないのであって、原判決が、検察官の死刑求刑に対し、被告人両名に対し無期懲役を言い渡したのは、その量刑において著しく軽きに失し不当であることが明白であるというのである。

右所論のうち、盛岡事件及び郡山事件は、いずれも、その罪質、動機、殺害の手段・方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、遺族の被害感情等からして、稀にみる凶悪重大事件であることは、前記第四の二(本件各事件の全般的な犯情について)で述べたとおりであり、両事件が、一地域にとどまらず社会一般に大きな衝撃を与え、多大な驚愕、恐怖等の感を呼び起こしたものであることも、本件に関する新聞報道の状況(検察事務官作成の各捜査報告書(甲四八八<60>、四九〇<62>)、司法警察員作成の捜査復命書(甲四八九<61>))等の各証拠から十分窺い知ることができる。更に、当審における事実取調べの結果によれば、Gの長男(U1)は、その平成七年二月二日付けの検察官調書中で、盛岡事件に関与した犯人については全員が死をもって償ってもらいたいとの気持ちは変わっておらず、被告人Cと同Dが原審において死刑にならなかったことについては許せない気持ちである旨述べ、また、Wの妻(Z子)は、その同月一日付け検察官調書中で、私を含め、家族の気持ちは原審で情状証人として出頭した際と全く変わっておらず、あのような残虐なやり方で二人もの人間を殺した人達は、全員その責任を取って当然死刑になるべきであり、被告人C及び同Dを無期懲役に処した原判決については大変残念である旨その心境を語っており、盛岡・郡山両事件の遺族の被害感情は、今日においても極めて厳しいものがあることが認められる。

しかしながら、検察官の所論について、先に若干当裁判所の見解を示したとおり、死刑が人間存在の根元である生命そのものを奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であることにかんがみると、被告人両名に対し、死刑を科さなかった原判決の量刑が不当であるかどうか判断するについては、両事件が、集団犯罪であるという特質を有していることや、前記のとおりその犯情が最悪であることを十分考慮しつつも、被告人両名の、盛岡・郡山両事件における立場やその果たした役割をも慎重に検討することが必要不可欠であって、そのことは、所論も全く否定する趣旨ではないものと解される。そこで、以下所論に鑑み、被告人両名の個別的な犯情について検討を加えることとする。

(1) 被告人Cについて

まず、盛岡事件に関してみると、被告人Cは、被告人B同様、被告人Fから、Gを脅して金品を奪う話を持ちかけられるや、金欲しさから安易にこれに賛同したものであり、原判示のとおり、事前の謀議の際には、Gを誘拐して拉致するための空き家を紹介し、その後、謀議に従い、犯行に使用する道具類(関係各証拠によれば、少なくともガムテープは被告人Dとともに買い求めたことが認められる。)や車両(改造ワゴン車)を予め準備し、犯行時には、空き家でGを待ち構えて、被告人AがGの頚部に短刀を突き付けて椅子に座らせた直後、同人の両手足を椅子の脚にひもで緊縛し、その後、被告人FとともにG方アパートに出向いて家捜しに参加し、小岩井農場に向かうまでいったん別の場所で時間をつぶす話が持ち上がると、マージャンにかこつけて原判示モーテルに行くことを提案して、自宅までマージャン牌を取りに赴くなどしている。更に、小岩井農場では、井戸探しに奔走した上、Gの殺害方法の変更に同意し、殺害現場ではGを生き埋めにするための穴掘りなどに参加し、犯行後には、GのBMW車を処分して分け前として約二五万円を手にしたほか、被告人BらとともにGの債権回収に奔走して収益を得るなどの行動に出ている。なお、先に被告人Bの量刑事情に関して述べたとおり、被告人Dの当審公判における供述等に照らすと、被告人Cは、被告人Bとともに、改造ワゴン車とは別の乗用車を使ってGを生き埋めにするための穴を掘る場所を探しに出向くなど、Gの殺害に関して、原判決が認定判示した以上に深く関与していたのではないかとの疑いを否定できないが、盛岡事件に関する全証拠を検討してみても、そのような事実があったとの確信を抱くまでには至らないから、この点は、被告人Cの果たした役割を検討する上で、小岩井農場に赴く際などに使用された車両は、原判示のとおり改造ワゴン車一台であったとの前提をとることとするが、関係各証拠によれば、少なくとも、被告人Cの行動として、右に判示した行動に出ていた事実は十分認めることができるというべきである。

以上のとおり、被告人Cは、金欲しさから積極的に犯行に加わったものであり、所論が指摘するとおり、動機に寸亳も酌量の余地がない上、その後の行動をみても、犯行実現に向けて終始、自発的かつ積極的に行動していることも明らかであるというべきである。これに対し、被告人Cの弁護人は、同被告人の果たした役割は、いずれも被告人Fないし同Bに指示されて行ったものであるなどと主張し、被告人Cの盛岡事件における従属的立場を強調するけれども、マージャンにかこつけて原判示モーテルに行くことを提案し、わざわざ自宅までマージャンを取りに赴いた行為などは、被告人Cの積極性を十分窺わせるものである上、井戸探しに奔走したり、穴掘りに加わった行為なども、被告人らの謀議に基づく行動であって、被告人Fないし同Bに指示されて行ったに過ぎないなどと到底いうことはできない。また、同弁護人は、被告人Cは、当初から確定的な殺意があった訳ではなく、モーテルに赴いた時点でG殺害の件は無くなったと思ったが、小岩井農場において、被告人Fから井戸探しの話をされるに及んで、Gの殺害について現実的な疑いを持ち始めたものであり、穴掘りの時点においては、殺害の中止の期待を込めて抗議の意思表示をしたなどとも主張するが、これまで説示したところに照らし、右主張も採用の余地はない。

ところで、原判決は、盛岡事件における被告人Cの役割につき、「本件犯行での間接的な側面が多いが、その関与態様をそのまま評価することは妥当でなく、いずれも密行性を保ちつつ犯行を円滑に進めるための所作であり、これによって本件犯行の奏功を助長したことは疑いないのであって、その意味で、被告人Cの本件犯行における犯情も悪質である。」旨判示しているが、被告人Cの前記各所為は、犯行の完遂に向けた一連の経過の中で重要なものであったといわざるを得ず、しかも、被告人Cの犯行実現に向けた積極性を考えると、被告人Cの行為に対する原判決の右のような評価は、集団犯罪であるという側面を若干軽視したきらいがあることは否定し難いところである。もっとも、盛岡事件における被告人Cの果たした役割を、被告人Fや同Bのそれと対比してみると、とりわけ主導性の面において、そこにはやはり差異があるものといわざるを得ず、謀議等における被告人Cの言動は、いわば、被告人Fや同Bの主導的言動を助長する意味合いを有していたと評することができる。しかも、被告人Cの弁護人が指摘するとおり、関係各証拠によれば、被告人Cは、モーテルにおいて、被告人Bらに対しGへの謝罪を提案したことが認められるところ、その前後の一連の行動をみると、右の提案をその言葉通り解してよいかについては問題もあるけれども、被告人Cにおいて、Gを殺害することに対するいささかの消極的姿勢を窺わせる言葉である可能性は否定できないところである。

所論は、被告人Cは、謀議に関して、犯行を完遂する上での重要な点について主導した事実が認められ、その果たした役割は、被告人B及び同Aを凌駕し、被告人Fのそれに準ずるものがあり、実行行為に関しても、単に殺害時に直接手を貸さなかったというに過ぎず、G殺害で果たした役割は被告人F及び同Bに何ら劣らないばかりか、その犯情は被告人Aに比すべくもなく悪質である旨主張するが、以上説示したところに照らすと、右主張はいささか過大な評価であるといわざるを得ず、これに直ちに与することはできない。

次に、郡山事件に関してみると、被告人Cは、平成元年七月初旬、被告人Aから、金持ちの社長をさらって大金を奪う話を持ちかけられるや、直ちにこれを承諾し、被告人Dや同Eらにも声を掛けて郡山に乗り込んで、被告人AのY誘拐計画に加わり、計画の不十分な点を指摘するなどした上、引き続いてこれを実行に移そうとしたものの、被告人Aの準備不足でいったん計画を中止して岩手県に引き上げたが、暫くして、被告人Aから強い懇請を受けると、被告人Bや同Fを犯行仲間に加えて再び郡山に出向いている。そして、Y誘拐計画が失敗して被告人らがいったん貸別荘に赴いた際、標的をWに変える話が持ち上がると、被告人Cも、他の共犯者とともにこれに積極的な態度を示し、謀議の際にはW殺害の意見に同調し、犯行時においては、事前に決められた役割分担に従い、大手企業の重役に扮してWを誘拐し、同人を貸別荘に監禁した後は、Wの乗用車を他所に移動させて犯行の発覚を防ぐ工作をし、その夜行われたWの殺害役を決める謀議においては、被告人EとXに殺害役をやらせるとの被告人Fの提案に同調し、Wを埋めるための穴掘りに加わり、被告人Fらとともに現金の強取に出向くなどの行為に及んでいる。そして、被告人Cは、本件により約二四〇万円の現金を手にした上、共犯者とともに犯行の成功を祝って祝盃を上げる行為に及んだことは、前述したとおりである。

以上のとおり、被告人Cは、郡山事件において、その発端であるY誘拐計画に当初から積極的に関与し、被告人Dや同Eを仲間に誘い込み、被害者の殺害を目論むなど、同犯行の実現を押し進めていた上、被告人Fや同Bをも加入させており、被告人Aの量刑理由で述べたように、郡山事件は、単にY誘拐計画の標的がWに変わったに過ぎないことを考えれば、被告人Cは、郡山在住の被告人A及びXと岩手県在住の共犯者とを結び付けるという、郡山事件の犯罪集団が形成されるについて極めて重要な役割を果たしているのであって、その責任は、誠に大きいものがあるというほかはない。しかも、前記のとおり、被告人Cは、犯行時においても積極的に行動しており、郡山事件における同被告人の罪責は、極めて重大である。

これに対し、被告人Cの弁護人は、被告人Cは、被告人Aから話を持ちかけられた当初から被害者の殺害を目論んでいたものではない旨主張し、被告人Cは、原審及び当審各公判においてこれに沿う供述をするが、同被告人は、被告人Aともども既に盛岡事件に関与していたとの一事をとってみても、被告人Cの右供述はにわかに信用できない上(この点、被告人Cは、その検察官調書(乙六〇、<46>八六七〇丁裏)中で、「被告人Aが電話で、「金儲けの話がある。さらって金になる話だ。一億円の物件だ。」と言って来たのを聞いて、被告人Aとは一緒に岩手で人を殺した仲ですので、すぐに俺の頭の中に岩手のことが浮かんだ。」などと供述している。)、Z1の検察官調書(甲一八七、<20>三一八三丁)等の関係各証拠によれば、Z1がY誘拐計画から離脱したのは、七月一日ころ「すかいらーく」で行われた同計画の打合せの際、被告人Aもしくは同Cから、被害者をさらって来たら殺すしかないなどという話が出たからであることが十分認められることに照らしても、所論は到底採用できない。

また、同弁護人は、被告人Cは、被告人Bや同Fを犯行に誘ってはいない旨主張するが、関係各証拠によれば、被告人Cが被告人Bに声を掛けたことは明らかである上、被告人Fを直接誘った者が誰であるかは、証拠上必ずしも明らかではないけれども、仮に、それが被告人Bであったとしても、被告人Cを通じての話であったことは、関係各証拠上容易に推測されるところであり、被告人Cが、被告人F及び同Bを犯行に誘ったことに変わりはない。

その他、同弁護人は、被告人Cは、確かに、他の者に強制されて郡山事件に加わったものではないが、被告人B、被告人Aあるいは被告人Fとの人間関係からずるずると犯行に加わってしまった、あるいは重大な結果発生に至るまで従ってしまったと評価する方が正確であるなどと主張するけれども、これまで述べてきたところに照らし、到底採用できる主張ではない。

そこで、以上を踏まえて、検察官の所論について考察すると、所論は、被告人Cは、原判示のとおり、被告人A及びXと岩手県在住の共犯者との間に立って、いったんは頓挫しかかった計画を立て直して犯罪集団を再結成し、犯行の実現を直接可能にしたのであって、集団犯罪としての特質や、その後被告人Cが、謀議等においても、Wの殺害を強く主張するなど終始積極的に行動していることを併せ考えれば、被告人Cは、Wに直接手をかけなかったというに過ぎず、郡山事件の主犯の一人であることは疑いないとし、更に、被告人Cを含む盛岡事件の被告人らは、被告人E及びXにWを殺害させることにより、犯罪遂行上の一体感の醸成と口外による犯行発覚の防止を目論んだものである上、被告人Cは、当初から被害者の殺害を主張し、被告人Eに対して被害者殺害の意思のあることを確認して加担せしめているのであり、郡山事件について、被告人Cは真に首謀者であるといって過言ではない旨主張する。

そこで、検討すると、前述したとおり、被告人Cは、郡山在住の被告人A及びXと岩手県在住の共犯者とを結び付ける行動に出ており、郡山事件の犯罪集団の形成に関して、被告人Aとともにその中心的役割を果たしたことは明らかであって、その意味では、被告人Cが郡山事件の主犯の一人であるとの所論も、全く誤りであるということはできない。もっとも、Wを被害者とする郡山事件そのものに関してみると、被告人Cが、終始積極的に行動しており、前記のとおり重要な役割を果たしたものであることは明らかであるが、標的がYからWに変更された場面において、主導的役割を果たしたのは、被告人A、同Fあるいは同Bであり、また、七月二〇日の午前中W殺害を含む郡山事件の全犯行に関する共謀が遂げられた場面や、同日の夜に殺害役を被告人EとXに決めた場面において、主導的、中心的役割を果たしたのは、被告人Fや同Bであることが認められ、これらの場面において、被告人Cは、Wを最終的に殺害することや(乙七〇、<46>八八九七丁表)、Wの殺害役を被告人EとXにすることに同調する発言をする(右同、<46>八九三三丁裏)など、いわば、被告人Fや同Bらの発言を後押しする言動に出ていることが窺われる。なお、被告人Cの弁護人は、同被告人は、標的をWに変更するに当たって、計画を中止して花巻に帰ることを主張したものの容れられなかったものであるなどと主張するが、関係各証拠によれば、被告人Cは、被告人Aの計画が余りに杜撰であることに憤慨して、そのような発言をしたに過ぎず、犯行継続に対する消極的姿勢を示すものとは言い難いのであって、それが証拠に、標的をWに変更する話が出るや、たやすくこれに賛同している(右同、<46>八八八二丁裏)のであり、右主張は採用できない。

このように、郡山事件における、被告人Cの立場やその果たした役割についてみると、前述したとおり、郡山事件の犯罪集団の形成に関して果たした役割は、誠に重大であるが、それ以後において果たした役割を、被告人A、同Fあるいは同Bのそれと対比してみると、被告人Cの謀議等における言動は、盛岡事件におけると同様、被告人Fや同Bらの主導的言動を助長する意味合いをもつものが多いことが窺われる。もっとも、所論が指摘するように、被告人Cは、肝心な場面になるとその場を逃れたり、いやな役回りを回避したりしている態度が証拠上看取されることは否定できないが、この点を考慮に入れて考えてみても、被告人Cが郡山事件において果たした役割は、被告人A、同B及び同Fと何ら遜色がないといい得るとし、被告人Cは、真に首謀者であるといって過言ではないとの所論を、直ちに肯定してよいかについては、なお疑問の残るところである。

とはいえ、前記のとおり、郡山事件の犯罪集団の形成に関して果たした役割は、誠に重大である上、被告人Cは、あらかじめ殺害の実行行為は新たに加担した被告人E及びXをして行わせることを謀議して、同人らに実行せしめたもので、直接殺害行為に及んでいないことをもって、いささかでもその責任が軽減されるものではなく、更に、所論が指摘するとおり、被告人Cは、盛岡事件、郡山事件という二件の凶悪重大事犯を敢行しながら、その後においても、被告人Fらとともに、同種の不法事犯を企て、実行直前にまで至っていることも、犯情上無視できないところである。その他、被告人Cの原審及び当審各公判における供述をみる限り、同被告人が記憶に基づいて真実を語っているか疑問なしとしないところであり、この点も、犯情は芳しくない。

これに対し、被告人Cに有利な情状として、被告人Cには、交通事犯による罰金刑の前科以外にみるべき前科がないこと、愛児を小児がんで亡くしたことが、その後の同被告人の人生を狂わせる遠因ともなっていること、本件当時運転代行業の仕事に従事していたこと、本件各犯行を反省悔悟しており、被害者らの冥福を祈っていることなどの事実が認められる。

(2) 被告人Dについて

まず、盛岡事件に関してみると、被告人Dは、被告人Cから誘いを受けるや、金欲しさから安易に犯行仲間に加わったものであり、事前の謀議に従い、犯行に使用する道具類や車両(改造ワゴン車)を準備し、犯行時には、Gを空き家まで連れ出す際その車を運転するとともに、その後も改造ワゴン車の運転役を務め、G殺害時には、原判示のとおり、穴を掘り、Gを現場まで連行して靴等を脱がせ、穴に転落した同人を生き埋めにすべくその上からスコップで土をかける行為を始めたが、突然Gが身を起こすや、持っていたスコップでその顔面等を殴打して同人を昏倒させ、引き続きGを埋没させて殺害する行為に及んでいる。そして、犯行後には、GのBMW車を処分した分け前として約二五万円を手にしたほか、被告人Bや同Cらに付いてGの債権回収に赴くなどしている。

以上のとおり、被告人Dは、金欲しさから積極的に犯行に加わったものであり、所論が指摘するとおり、動機に全く酌量の余地はない上、その後の行動をみても、犯行実現に向けて積極的に行動しており、とりわけG殺害の実行行為に及んだ責任は重大であって、その犯情は誠に悪質であるといわざるを得ない。

ところで、原判決は、被告人Dが、殺害現場において、突然身を起こしたGの顔面等を、持っていたスコップで殴打して同人を昏倒させる行為に及んだことにつき、予期しない事態の発生に驚愕の余りの所為であることが窺われ、直ちに悪評価をすることができない旨判示しているところ、所論は、通常、驚愕の余りその場から逃げ出すなど犯行を中断するのが大方であると思われるのに対し、犯行遂行のため殴打に及んだのは、被告人Dの強固な犯意と冷酷非道な人格を示すものにほかならないとし、原判決の評価は誤っている旨主張するが、当時被告人Dが置かれていた状況を考えると、驚愕の余りその場から逃げ出すなど犯行を中断するのが大方であるとは、必ずしも言えないのであって、原判示のとおり、予期しない事態の発生に驚愕の余り右殴打行為に及んだとみることが十分可能であるから、この点に関する原判決の評価に誤りがあるとはいえず、右所論は採用できない。

次に、郡山事件についてみると、被告人Dは、被告人Cからの誘いに応じて、Y誘拐計画に加わり、被告人Aの準備不足でいったん計画を中止して被告人Cとともに岩手県に引き上げたが、暫くして、被告人Aから強い懇請を受けると、再び被告人Cらと右計画を実行すべく郡山に出向いている。そして、Y誘拐計画が失敗して被告人らがいったん貸別荘に赴いた際、標的をWに変える話が持ち上がると、被告人Dもこれに賛同し、犯行計画の謀議の際、最終的にはW殺害の意見に同調し、犯行時には、事前に決められた役割分担に従い、W誘拐の際随伴車両の運転を担当し、同人を貸別荘に監禁した後は、Wの乗用車を他所に移動させて犯行の発覚を防ぐ工作をし、その夜行われたWの殺害役を決める謀議においては、被告人EとXに殺害役をやらせるとの被告人Fの提案に同調し、Wを埋めるための穴掘りに加わり、被告人Fらとともに現金の強取に出向くなどの行為に及んでいる。そして、被告人Dは、本件により約二四〇万円の現金を手にした上、共犯者とともに犯行の成功を祝って祝盃を上げる行為に及んだことは、前述したとおりである。以上のとおり、被告人Dは、郡山事件においても、積極的に犯行に加わり、役割分担に従って行動していることが認められ、その罪責は誠に重いといわなければならない。加えて、同被告人は、盛岡事件、郡山事件という二件の凶悪重大事犯を敢行しながら、その後においても、被告人Fの企てた誘拐計画に加担したことも犯情上無視することはできない。

しかしながら、被告人Dは、盛岡・郡山のいずれの事件においても、主導的、中心的な立場にあったものとはいい難く、犯行計画の立案や被害者の処分といった重要事項の決定の際には、被告人Fら主導的立場にあった者の意見に付き従ったことが認められる。また、各犯行時の状況をみても、被告人Dは、概ね従属的な立場で行動していることは否定し難いところである。もとより、被告人Dは、被告人Fや同Bらの指示により個々の行動に出ているとはいえ、これらは、共犯者全員の謀議において決められた役割分担に応じたものであることは、所論が指摘するとおりであって、他の共犯者の行為についても責任を負うことは当然であり、とりわけ、郡山事件におけるWの殺害行為については、殺害役を決めた謀議に被告人Dも関与しており、被告人Dが、W殺害の実行行為に直接係っていないからといって、いささかなりともその責任が軽減されるものでないことはいうまでもないが、さりとて、盛岡・郡山両事件における、被告人Dの立場やその果たした役割を、被告人A、同B及び同Fのそれと対比してみると、そこには明確な差異があるものといわざるを得ない。所論は、盛岡・郡山両事件において、被告人Dの果たした役割は、被告人A、同B及び同F、更には被告人Cと比べて何ら劣るところはない旨主張するが、所論を直ちに採用することは困難である。

以上のほか、被告人Dに有利な情状として、原判決が説示し、所論も指摘しているとおり、被告人Dは、捜査段階及び原審公判を通じて、各犯行を素直に認めて誠実に供述しており、その態度は、当審公判において一層顕著であること、道路交通法違反の罰金刑の前科以外にめぼしい前科前歴がないこと、盛岡事件に至るまで自動車運転手等として真面目に稼働していたこと、本件各犯行を深く反省悔悟しており、被害者らの冥福を祈っていることなどの事実が認められる。

四  結論

そこで、以上検討してきた、盛岡事件、郡山事件及び千葉事件の全般的な犯情に加え、各被告人の個別的な情状をも併せて、被告人らに対する原判決の量刑の当否について考察する。

1  これまで述べてきたとおり、盛岡事件及び郡山事件はいずれも、その罪質、犯行の動機の悪質性、殺害の手段・方法の執拗性、残虐性、結果の重大性、遺族の被害感情の深刻さ、社会的影響の大きさ等からして、稀にみる凶悪重大事件であるところ、被告人B及び同Fは、右いずれの犯行においても、主導的、中心的役割を果たしたものであり、原判決が説示しているとおり、いずれの力を欠いても右各犯行はなし得なかったものと認められ、その罪責は極めて重大であるというほかはない。また、被告人Aについても、盛岡事件及び郡山事件において重要な役割を果たしており、とりわけ、郡山事件において果たした役割は極めて重大である上、同被告人は、右両事件を敢行しながら、更に、その後、千葉事件というこれまた重大事犯を首謀者として起こしていることをも併せ考えると、被告人Aの罪責も、被告人B及び同Fと同様極めて重大であるといわざるを得ない。そうすると、先に検討した右被告人ら三名のために斟酌すべき事情に加えて、原判決が認定判示している被告人らの身上経歴や年齢等をも十分考慮し、死刑が人間存在の根元である生命そのものを奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いを致してみても、その罪責の重大性に鑑みると、被告人A、同B及び同Fを死刑に処するのはやむを得ないものとして、これを是認せざるを得ず、右被告人三名をいずれも死刑に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとはいえない。

2  次に、被告人Cについてみるに、先に検討したとおり、同被告人は、盛岡・郡山の両事件に関与し、いずれの事件においても積極的に行動して重要な役割を果たし、とりわけ、郡山事件の犯罪集団が形成されるについては、被告人Aとともに中心的に行動しており、見方によっては被告人Cは郡山事件の主犯の一人ということもできるのであって、その罪責の重大性に照らすと、同被告人に対し、極刑をもって臨むことも十分考えられるところである。しかしながら、その一方で、先に検討したとおり、被告人Cが、盛岡・郡山両事件において実際に果たした役割を、被告人A、同Fあるいは同Bのそれと対比してみると、謀議等の場面における被告人Cの言動は、被告人Fや同Bらの主導的言動を助長する意味合いをもつものが多いことが窺われ、これに、同被告人が実際に行った行為の内容をも考え併せて、全体として盛岡・郡山両事件における被告人Cの犯情をみてみると、同被告人が、いわば両事件においてうまく立ち振る舞っていたと看取されることなどを考慮に入れても、被告人Cの果たした役割について、所論がいうように、盛岡事件においては、被告人B及び同Aを凌駕し、被告人Fのそれに準ずるものがあるとか、郡山事件においては、被告人A、同B及び同Fと何ら遜色がなく、同事件において真に首謀者であるといって過言ではないなどという評価を直ちに下すことは、困難であるといわなければならない。この点につき、原判決は、被告人Cの犯情は、同被告人が実際に果たした行為の内容態様に照らせば、被告人A、同B及び同Fの三名のそれとは逕庭があると認められる旨判示しているが、その理由として述べるところは必ずしも首肯できないものがあるとはいえ、以上説示してきたところに照らし、結論において原判決の右評価を誤りであると断ずることはできない。そして、所論が強調する盛岡・郡山両事件の集団犯罪としての特質や、その一般的犯情がいずれも最悪であることなどを考慮してみても、被告人Cを無期懲役に処した原判決を破棄し、同被告人を極刑に処することについては、なお躊躇を感ぜざるを得ないから、被告人Cを無期懲役に処した原判決の量刑が、軽きに失して不当であるとはいえない。

3  また、被告人Dについてみると、同被告人も、盛岡・郡山の両事件に関与し、いずれの事件においても積極的に行動して重要な役割を果たし、とりわけ、盛岡事件においては、G殺害の実行行為に及んでいるのであって、その刑責が誠に重大であることはいうまでもない。しかしながら、前述したとおり、被告人Dは、盛岡・郡山のいずれの事件においても、主導的、中心的な立場にあったものとはいい難く、犯行計画の立案や被害者の処分といった重要事項の決定の際には、被告人Fら主導的立場にあった者の意見に付き従ったことが認められる上、各犯行時の状況をみても、被告人Dは、概ね従属的な立場で行動していることは否定し難いところであって、盛岡・郡山両事件における、被告人Dの立場やその果たした役割を、被告人A、同B及び同Fのそれと対比してみると、そこには明確な差異があるといわざるを得ない。したがって、所論が強調する盛岡・郡山両事件の集団犯罪としての特質や、その一般的犯情がいずれも最悪であることなどを考慮してみても、被告人Dに対し極刑をもって臨むことは相当でないから、同被告人を、無期懲役に処した原判決の量刑が軽きに失して不当であるとはいえない。

4  最後に、被告人Eについてみると、同被告人は、郡山事件において終始従属的な立場で行動していることや、自己の意思に反して被害者殺害の役目を負わされたことなど、斟酌すべき事情も認められるが、大金欲しさから同事件に加わったもので、動機に何ら酌むべき事情はない上、何よりも、押し付けられたとはいえ被害者殺害の実行行為やその死体を埋没させるという残虐な行為に及び、しかも、他の共犯者とほぼ同額の分け前を得ていることなどを考慮すると、その罪責は誠に重大であって、同被告人に酌量軽減すべき情状があるとまではいい難く、同被告人を無期懲役に処した原判決の量刑が、破棄しなければならないほど重過ぎて不当であるとはいえない。

以上の次第であるから、被告人A、同B、同E、同Fの量刑不当の各論旨、並びに、被告人C及び同Dに対する検察官の量刑不当の各論旨は、いずれも理由がない。(なお、被告人Aの原判示罪となるべき事実中、千葉事件に関する原判示第一の事実に関し、関係各証拠によれば、被告人Aらは、原判示レストラン「デニーズ宇都宮東口店」駐車場において、みのしろ金を奪取した直後、被拐取者であるB1を安全な場所に解放したものと認められるから、刑法二二八条の二の規定(ただし、平成七年法律第九一号による改正前のもの。)に従い、無期懲役刑を選択したみのしろ金目的拐取罪につき、法律上の減軽をすべきであったところ、原判決には、この点を看過した事実誤認ないし法令適用の誤りがあるけれども、前示のとおり、同被告人に対しては、右の点を十分考慮してみても(なお、原判決も、千葉事件において被害者(被拐取者)を解放したことを、被告人Aに有利な情状として考慮していることが明らかである。)、原判示法令の適用のとおり、盛岡事件に関する原判示第二及び郡山事件に関する原判示第三の各強盗殺人罪につき、いずれも死刑を選択し、併合罪加重に当たり他の刑を科さないこととして、同被告人を死刑に処すべきものと認められるから、右事実誤認ないし法令適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかとはいえない。)。

第五  よって、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却することとし(原判決は、一九八頁に「被告人六名について、同法(刑法)四六条一項本文、一〇条により」と適示しているが、これは「被告人A、同B及び同Fについては同法四六条一項本文、一〇条により、被告人C、同D及び同Eについては同法四六条二項本文、一〇条により」の誤記と認める。)、平成七年法律第九一号による改正前の刑法二一条を適用して、被告人Eに対し、当審における未決勾留日数中八〇〇日を原判決の本刑に算入し(なお、原判決は、無期懲役に処した被告人C、同D及び同Eに対し、原審における未決勾留日数を本刑に全く算入していないが、本件事案の内容や原審の審理経過のほか、無期懲役刑に未決勾留日数を算入する実益はそれほど大きいものではないことなどに照らすと、これをもって、原判決に著しい量刑不当があるとはいえない。しかし、当審においては、被告人C及び同Dに対して、控訴申立後の未決勾留日数が全部法律上当然に原判決の各本刑に通算されることとの権衡上、被告人Eに対して、当審における未決勾留日数のうち前記日数を算入するのが相当であると認めた。)、当審における各訴訟費用については、被告人A、同B、同E及び同Fにつき刑訴法一八一条一項ただし書を、被告人C及び同Dにつき同条三項本文を各適用して、いずれも被告人らに負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 泉山禎治 裁判官 堀田良一 裁判官 河合健司)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例